「体調不良が嬉しい」にある本音
僕は子供の頃から病弱で、小学生の頃は小児喘息で季節の変わり目にはいつも入院していました。
そして、自律神経失調したり、うつを経験したこともあって、それからの不調の引きずりから、疲れ溜めやすかったり、回復するのに時間かかったりします。
そんな僕なので体調についてはいつも心配しているというか敏感な面があります。
常に身体の状態を気にしていて、体調を崩さないように無理しないって自分に制限かけているところがあります。
体調不良はそんな行動を制限するものになっている一方で、言い訳というか心の避難所にもなっている部分があります。
というのも、体調崩した時は頑張らなくていいんだって安心したり、頑張らなくていいことの大義名分が出来て、内心喜んでいる自分がいるんですよね。
本心で頑張りたくない、休みたい、怠けたいって思いがけっこう強いように思います。
体調不良を理由に仕事休めること、病院に行く時間を実はけっこう喜んでたりするし、療養中に自由な時間を持てることが嬉しいです。
※病気で苦しんでいる方、治したいのに治らない苦しさの中にいる方は誤解されるかもしれませんが、「みんなもそうじゃないですか?」って言いたいわけではなく、僕の本心にはそういう面がありますってだけの話しですのでご了承ください。
体調不良が嬉しいを紐解く
アドラー心理学で目的論に触れた時、ドキッとしたんですよね。
まさに「体調不良」を目的のためにを使っているって気づいた瞬間でもあったので。
「なかなか残念な自分だな」とあきれるところはあるんですが、この気持ちを紐解いていくと、どう生きたいのか、理想の生活につながる本心が浮かび上がってもきたんですよね。
どう自分が生きたいかがはっきり見えてきたんですよね。
残念な自分の発想が本心につながる部分であったわけです。
愛されたい、休みたい時に休みたい、好きなことをやりたい、したくないことはしたくない。
そういう生き方を望んでいる自分にはっきり気がつくことができたんです。
本心との妥協点
かといって、極端にそういう本心に完全に従った生活に身を置こうと舵を切ろうとは思えないわけで、少しずつ本心にあった生活に近づけてはいきたいと思うわけですが。
そこには社会的な縛り、人からの評価、立場、親として、家族に対して色んな「自分」という役割を果たそうとしていることがあると思います。
根本的な本心は「楽したい、休みたい、自由でいたい」ってあるけど、与えられた役割を「果たそうとしている自分」、苦しいけどそうしたい自分がいることを捨てきれないんだと思います。
自己犠牲的なものだけど、そこに嬉しさ・喜びを感じている自分もいる。
くだらないことでマウントとりたがっている自分の一面もある。
自己満、ドMなのかも、ただただ社会から排他されるのが怖いからなのかもしれないけど。
本心も自覚して、生き方をチューニングしていく。
本心と色んな自分の面との妥協点を見つけて進み方を決めていく。
内観を通してそういう進み方をしていきたいと思います。
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と、今まさに体調不良で療養中の中書いてみましたが...
先週から頭痛、微熱、のどの痛みで体調悪くて、病院受診していたんですが、花粉症かなということで、様子見ていました。
花粉症ってこんなきついものなのか?花粉でこんなに体調侵されるのってなんか腐海の毒に怯えて暮らすナウシカの世界じゃんって思ってたりしたんですが。
結果、再度病院で検査したらコロナでした...
療養期間が延びたので安静にしつつ、与えられた時間でアイデア出しだけしていた記事を完成させていたところでした...
記事のとおり、自由な時間に嬉しさを感じつつ...
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