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貼られたレッテルに、どうやって向き合っていけばいいのか

中山明子と申します。私事ですが、先日「Abema Prime」に出演の機会をいただきました。

社会に出てからも苦悩を抱えていた東大卒として、「東大卒でも幸せになれるわけじゃないの?」というテーマについて思うことをお話ししました。

(サムネイルにデビューしてしまいました。びっくりしています)

出演のお声掛けをいただいたきっかけは、前職ワンキャリアで初めて執筆した記事でした。公務員からスタートアップに転職し、壁にぶち当たった経験を綴った記事です(2017年に執筆、何度か再掲載いただいてます)。

番組内でコメンテーターの方々が「自惚れ」「自意識過剰」と看破なさっていたように、私が「就活で死にたくなった東大卒」「社会に出ても使えない東大卒」になってしまった理由は、東大生/東大卒である自意識に押しつぶされてしまったことにあるんだろうなぁ……と振り返っています。

番組に出てもうひとつ思ったのは、知らず識らずのうちに貼られたレッテルを意識しすぎてつらい思いをしている方は、東大関係者に限らず多いのではないか? ということです。

・しっかり者のイメージを崩せないから辛くても休めない
・社内で数少ない女性だから/若手だから気を遣わないといけない
・配偶者/親として完璧でいないといけない

アラサーの同世代からこぼれるこんな言葉は、東大を意識しすぎて自滅していた私と一緒なのではないか……とも思うのです。

以前はこじれた自意識過剰だった私ですが、今は落ち着いて過ごしています(番組でも久しぶりに昔のことを思い出して、懐かしいやら恥ずかしいやらで大変でした)。今回は、そんな経験から思う「レッテルとの向き合い方」を書きたいと思います。

「◯◯しなきゃ」の出どころが、自意識なのか要請なのか確かめる

まず、自分が強迫観念を抱く理由を明らかにします。判定は他人に「◯◯してください」と明らかに要請されたかどうかでよいと思います。言外に要請されたように感じた、は一旦ナシで。

・東大生だからできるよね、と言われたかどうか
・しっかり者だから休まないでね、と言われたかどうか
・女性だから/若手だから気遣ってよ、と言われたかどうか
・配偶者/親だからこれくらいできないと、と言われたかどうか

言われてなかったら、それは自意識過剰の範疇です。実際に言われているなら、その人/場との付き合い方を考えたほうがいいですね。それはあなた個人ではなく、外から見える属性に対して期待を押し付ける行為だからです。

私の場合は、就活のころに「東大生が来るところじゃない」とハッキリ言ってきた会社さんとはご縁がなくてよかったな、と思っています。祈られた理由はどうあれ、人をジャッジする基準に学歴という属性を持ち出す可能性がある場だったからです。

自意識の小さなタブーを破ってみる

自分を縛る「◯◯しなきゃ」が、誰に頼まれたものでもないとしたら。その自意識過剰を抜け出す1つのステップとして、その「しなきゃ」を小さく破ってみるといいと思います。

「できないから助けて」と言う、なにもない日に有給休暇をとってみる、自分の仕事だと思っていたことを誰かに頼んでみる。

だいたいの場合、なんにも起きないんですよね。自分の掟を守れなくても、誰も気にしないんです。万一なにか起きたら(誰かに何かを要請されたら)、前項の通り付き合い方を考えたらいいのです。

意外と、誰も気にしてない。って知ることが、自意識過剰を脱するコツだと思います。私は今でも完璧主義の「100点病」に陥ってしまいがちなので、職場では事あるごとに「これ助けて」「これ教えて」と小さなお願いをするように心がけています。

レッテルを超えるアイデンティティを見出す

少しずつタブーを破ることを積み上げると、だんだんと自意識過剰を抜け出せるようになります。それでも、ふとした瞬間に不安が訪れると思うんです。これまでの「レッテルを貼られた自分」というアイデンティティが解体されていくことへの不安が生まれるはずです。

そのときに大切なのは、レッテルを上回るアイデンティティや自信を持つことです。自意識に押しつぶされるのは「レッテルに見合う自分」が「現実の自分」を上回ってしまい、釣り合いがとれていないときです。「現実の自分」を底上げすることで、一つのレッテルを意識せずに過ごせるようになると思います。

私の場合は社会人歴が長くなり、自他ともに大学名をアピールポイントにしなくてよくなったことや、転職活動中に大学名に言及されなくなったことで心が楽になりました。己のことを所属ではなく、自分なりにやってきたことで語れるようになり、東大というレッテルを意識しなくてよくなったのだと思います。

そもそも、ひとたび自分に貼られたレッテルを無かったことにするのは難しいものです。大抵の場合は環境を大きく変えないといけないし、そこまでは望んでいないことが大半だからです(レッテルが自分に味方してくれることもありますしね)。うまく共存できる精神状態になればいいんだと思います。

それはプライドじゃないし、私は虎になりたくない

「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」

なぜかTwitterでおなじみの大喜利コンテンツになっている中島敦の『山月記』ですが、個人的に印象に残っているのは以下の一節です。

人々は己を倨傲だ、尊大だといった。
実は、それがほとんど羞恥心に近いものであることを、 人々は知らなかった。(中島敦『山月記』より)

私はこの言葉を、他者から「プライドが高い」「強がりだ」と思われる振る舞いは、自分にとっては羞恥心が原動力であると解釈しています。アイデンティティと一体化したレッテルを裏切る・下回ることは、恥ずかしくてとてもできない。だから、「◯◯しなきゃ」の自意識から抜け出せない。それを単なる自尊心の問題だと一蹴され、誰にもその苦しみを共有できない……そんな抑圧の日々が続けば、確かに私達は人ならぬものになってしまうと思うのです。

残念ながら、たとえ私が虎になったところで文学作品にはなれず、数少ない身内や友人にご迷惑をかけるばかりです。

ならば檻の中に閉じこもるのは勿体ないですね。

べたべたのレッテルも、旅慣れたスーツケースみたいで良いかもしれない、と今は思えるようになりました。

せっかく顔と名前が出た機会なので、過去の自分のような方にひとりでも届きますように。漠然と同じ苦しみを抱える方も、いっしょに檻の中から出ていきませんか。

Abema TVの皆さま、お声掛けいただきありがとうございました。

「東大生にベンチャーって向かないんじゃない?」への私なりのアンサーは、これです。

めいこ

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