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「神」を信じること

 世界には無数の宗教があり、それぞれに絶対的「神」がまつられ、それを信じる人々の集団が存在する。当然のことながら、集団によって信じる神はみな違う。

 宗教は、それぞれの教え、戒律を持ち、個人倫理、社会倫理を形成している。それが、ヒトが社会において、安全に助け合って生活するのに大きく貢献していることは事実である。

 けれども往々にして、世界中で、神の名の下に戦争や自爆テロ、強奪、レイプ、拷問、搾取、差別などの蛮行が公然と行われていることも現実である。

 “神の名の下”というのは、ただの理由付けに過ぎない。彼らは、残虐な行為の責任を彼らの共通のシンボルである「神」に転嫁し、それを正当化しているだけである。

 ヒトは、理由さえあれば、どんな残虐なことでもできてしまう動物である。「〜だから〜することは当然である」と一度頭の中で唱えて、納得してしまえばそれで良いのだ。

 ヒトの脳、特に左脳は、自分の行為、他者の行為に対して、説明書きを付けようとする。そして、その理由が、主観的、利己的で、客観性、合理性に欠けるものであっても、お構いなしなのである。

 時にして、それは虚偽、ごまかし、言い訳なのであるが、一旦信念に置き換われば、ヒトを盲目的に志向させ、信じがたい行動に駆り立てる。そうなれば、もう手の施しようがない。

 神の存在を感じ、神を求めることは、長い進化の過程で、ヒトの脳に組み込まれたプログラムなのかもしれない。ヒトが社会性動物である以上、それを統率する神的存在、集団規律、集団凝集性は重要である。

 ヒトの脳の右半球側頭葉に磁気刺激を与えると、絶対者との一体感や自分を神格化する神秘体験を得るという。膨大な数の宗教や自身を神と名乗る教祖たちが存在するのもうなづける。

 昔からよく考えたことがある。自分が生まれ変わってキリスト教圏に生まれたなら、高確率でキリスト教徒になるであろう。同様にイスラム教圏に生まれたなら、おそらくイスラム教徒になるであろう。

 もし、名のある有力な宗教指導者が、異なる国で生まれ、異なる文化・家庭環境で育ったのなら、今どのように生きているのか。そう、問いたい気持ちになってしまう。

 だが、多分各宗教信者は、自分の神は絶対であり、自分は神に選ばれし者と信じているので、信仰における出生地や文化という環境要因の制約などあまり意味を持たないのかもしれない。

 ともかく、神がヒトの脳が作り出したもので、それが集団間の憎しみと対立を増幅させ、尊い命を奪い、生涯消えることのない苦しみや悲しみを生み出すのであれば、これほど痛ましい出来事はない。

 自分もヒトの脳を持つ以上、この悲惨な罠に陥る可能性は十分にある。そうならないためにも、常に、客観的な目をもち、ヒトを科学的、合理的に捉える対象として、深く考えて生きていきたいと心より願う。

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