小説 流転の徒(その6)
今日も優也はユーカリ荘に足を運んだ後、駅周辺をぶらぶらしていた。ここ一週間206号室に入居しそうな者は見つからないままでいた。突然カバンの中のスマートフォンが鳴った。坂井からだった。
「今、事務所から電話があってな、ユーカリ荘の周りを蜂がブンブン飛んでるらしいわ。様子を見てきて欲しいと言うことや。朝行った時には気が付かんかったけどな。とりあえずユーカリ荘に戻るぞ、ほな」
ユーカリ荘に戻ると先に到着していた坂井が亀山と話していた。
「亀やんがブンブン飛んでる蜂を見て事務所に電話したらしいわ」
ユーカリ荘は隣接する土地との境界にブロック塀がある。亀山が言うにはそのブロック塀に数匹の蜂が止まっていたり、そこから飛び立ったりしていたらしい。他の入居者も見たということだった。
「とりあえず周りを見ていこか」
坂井と優也はブロック塀に沿って歩いて回った。
「危なっ。飛んでる、飛んでる」
ブロック塀の穴から数匹の蜂が飛び立って行った。二人は少しだけ近付いてみると穴の中に巣を見つけた。
「そんなに大きい巣とちゃうな、これやったら業者に頼まず自分らで処理できるかもしれんな。業者に頼んだらまた経費がどうたらこうたらうるさいしな」
「確かにそんなに大きくないですね、何とかなるかも」
そんな会話をしていると「ちょっといいですか」と入居者の一人が声をかけてきた。
「なんやドク」
坂井はその人物の方を向いた。
「ドク」と呼ばれるこの男性は、某一流大学大学院の理学系研究科を出た後、大手化学メーカーに就職したものの、元々他者とのコミュニケーション能力が乏しいことや研究者としての彼の才能に嫉妬した先輩職員や同僚からの嫌がらせを受けたことで、精神を病み、職場に居づらくなって退職した。
その後はインターネットカフェを転々としていたが、所持金が尽きたところでユーカリ荘に入居することとなった。
映画「バックトゥーザフューチャー」に登場する「ドク」に見た目が似ていること、元研究職だったことから、坂井がそう呼び始めたのである。
「アシナガバチです。巣が大きくなる前に駆除しないと数が増えてしまいます」
「駆除するって、具体的にはどうするねん」
「ドラッグストアやホームセンターで売ってある蜂専用の殺虫剤を使うのですが、日中は活発に動き回るので止めておいた方が良いです。日没から少し時間が経った頃にはほとんどの蜂が巣に帰ってくるのでその時だと全滅させることができます。全滅が確認できたら、巣を取り除いたら完了です。危険なので本当は業者さんに任せた方が良いのですが」
「わかった、わかった。神代、近くのドラッグストアに買いに行こ。とりあえず夕方にもう一回来るで」
そう言って坂井は優也を連れて近くのドラッグストアへ向かった。二人は蜂専用殺虫剤を購入し、一旦事務所へ戻って状況を施設長に報告した。日が暮れ始めた頃に再度ユーカリ荘を訪れ、蜂の巣駆除を無事に終えた後、二人してドクの部屋を訪ねた。
「今回はドクのおかげで業者依頼しなくても蜂の巣駆除できたわ。有難うな」
ドクはちらちらと横目で二人を見ながら照れくさそうに会釈をした。
これまでも優也はドクが話す化学や物理学の話が好きで時々ドクの部屋を訪ねては話を聞いていたことがあったが、今回の件で更にドクという人物に対する興味と尊敬が増したような気がしていた。その感情とともに「こんな人がくすぶらないといけない世の中なのか」とも思っていた。
ドクにお礼の挨拶を済ませ、ユーカリ荘を出た時、坂井が言った。
「神代、久しぶりに一緒に晩飯でも食いに行かへんか」(つづく)
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