【旅ログ】2022年①岐阜県in昼飯大塚古墳
おはようございます。アロンです。
去年は私、人間的に腐れ果ててたんで旅行どころか外出もほとんどしなかったのですが、今年の1月に、そろそろ旅行を再開しようと考え、とりあえず近場のある歴史的史跡に足を運びました。
それが岐阜県最大の古墳、昼飯大塚古墳です。
大学の頃に訪れて以来行ってなかったので、少し道に迷いましたが、迷うのも旅の醍醐味。すぐに目的地に辿り着けました。
大きさ的には、まぁ他県と比べたら小さいですが、形は前方後円墳で、周りに円筒形の埴輪が置かれていて、これぞ古墳って感じです。
古墳に関していうと、遺跡数は関東や東北が多く、規模でいうと関西、近畿の方がデカい。
つまり、規模はその当時の奈良にあったヤマト政権の権力の大きさを表していて、遺跡数が関東で多いのは、当時の古墳時代の関東・東北の人口の多さを示している、ってことですかね?
古墳自体は、弥生時代末期から作られているんで、その頃から関東の方が西日本より人口が多くて、何らかの理由で、西にある奈良に権力の中枢が置かれた。
その理由ってのが、当時から日本に入ってきていたという大陸からの渡来人。
大陸から九州の方に渡来人がたくさん来ていたから、政治の中心を東より西に置いたほうがいいということになり、奈良にヤマト政権が置かれた…。
これは東北大学の田中英道先生の説が元ネタです。
それにしても、古墳だけで色々考察できて、歴史はホントに面白いですね。
気になるのは、古事記や日本書紀に東日本に関する記述がないということ。
東日本に何か歴史的な秘密があるってことですかね?
青森県の東北町には、「日本中央」と刻まれた石碑があるのをご存知ですか?
これは坂上田村麻呂が残したものと伝えられているらしいんですが、この「日本中央」の意味は、諸説あるものの未だに意味は分からないそうです。
地理的な意味での「中央」なのか、政治的な意味での「中央」なのか。
もし仮に、弥生時代や古墳時代の頃、日本の政治的な中心が東日本で、その記憶が古事記・日本書紀が編纂された天武天皇や持統天皇の時代に受け継がれなかった、もしくは何らかの理由で歴史から消されたとして、平安時代の人間である坂上田村麻呂は、なぜそのことを知っていたのでしょうか?
歴史ロマンってやつですね。
古墳について少し考えてみました。
古墳について考古学的調査が許可されないのにも何か裏の事情がありそうです笑
以上です。
読んでいただきありがとうございました。
失礼します。
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