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映画『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』(2020)の感想

さかはらあつし監督の『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』を映画館で観てきた。

監督は出演者であり、地下鉄サリン事件の被害者であり、荒木浩の大学の先輩でもある。

映画のはじめでは、さかはらあつし(阪原淳)監督の詰問口調に面食らうが、徐々に彼の真意や狙いが観客に共有されていく。

地下鉄サリン事件の背景にあるものは、がらんどうだと私は思っている。

人間は、人生に空虚さと薄っぺらさを感じながら、生きている。

何かに夢中になって、集中して、我を忘れたい。

人は、本来、自分ことなど考えたくないのだと思う。

昔の人、たとえば、縄文時代の人々だって、人間関係と仕事に悩んでいたと思う。ただ、日々の食糧確保や寝床の安全さを獲得するだけで、人生のほとんどの時間を使ってしまったり、災害や飢饉などに巻き込まれ、天寿をまっとうすることもできず、命を終えていたのだろう。生活に余裕がなければ、人生の意味など考える暇もない。

現代人は、人生の無意味さと空虚さに、凡人天才、金持ち貧乏人を問わず、対峙する必要に迫られる。それに加え、残酷さをつきつけられる人たちもいる。

現Alephの広報部長である荒木浩は、小学生の頃、欲しくて欲しくて仕方がなかった筆箱が、手に入った途端に色褪せ、買ったことを後悔したこと、ひどくつまらなく感じたことが、人生の契機になったと告白する。

オウム真理教の一連の事件の陰惨さと悲劇と対比すると、何とも小さな出来事である。地味なエッセイの一篇といったエピソードである。

しかし、それは荒木浩という少年が、人間の世俗的な欲望、わかりやすくいえば物欲、資本主義、物質主義、経済至上主義、市場原理主義といったものに、意味が見いだせず、背を向けた瞬間であり、それが彼の人生を決定づけた。

手に入れた途端に、すべてが色褪せ無意味に思えるのは、何も荒木浩だけの経験ではない。誰しもが知っている感情ではないだろうか。

それを何で埋めるかが、人生の選択なのかもしれない。

趣味や仕事に没頭したり、恋愛に命を燃やしたり、人間関係に時間を費やしたり、さまざまな手段がある。荒木浩が選んだのは新興宗教だった。

実のところ、荒木浩のほうが、人物としてはわかりやすい。彼はあなたであり、わたしでもある。

もう一人の主人公であるさかはらあつし監督は、荒木浩と対峙する。さかはら監督は、荒木の思考停止を許さない。徹底的に考えろ、言葉にしろ、と迫っていく。

この監督の凄まじさを支えているのは、圧倒的なヒューマニズム、人間への信頼であると思う。被害者であるにも関わらず、人間を信じようとしている。

あらゆる人間の醜悪さを超克しようとしている点で、監督のほうが、宗教的であり、人間に対する祈りがある。

あきらめずに対話し続けること、これは容易なことではない。そして、明らかにしなければ生きられない、という切迫もあっただろう。

他者に、伝えたい、話したい、答えてほしい、わかってほしい、という監督と、あまりに無垢な荒木浩が言葉を絞り出していくさまを観る映画でもある。

面倒くさがってはいけない。人間は考えて、考えて、考え続けるしかない。

考えずに済む安全な穴倉など、この世には存在しないのだから。






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