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答えがないことが「答え」です
何やら禅問答のようなタイトルを書いてしまったが、大人になると、基本的に「答え」はないと思っておいた方がいい。正解がない、と言った方が適当かもしれない。
わたしは先日まで、とある連続セミナーに参加していた。セミナー終了後に、わかったことや疑問点を書いて提出するのだが、ある日、参加者から「いつになったら、提出した疑問に答えてくれるのか」といった素朴な問い、ちょっとしたクレームが運営委員に投げかけられた。
わたしはいち参加者として驚いていた。セミナー終了後に自身の疑問を書くのは、疑問に思ったことを記録として残すため、運営側が参加者の傾向などを捉えるためであって、講師が参加者に「正解」を教えるためではない。
たとえ研究者であったとしても、自分の専門から少しでも外れると答えられなくなるし、研究している分野も、あくまで研究中、答えを追い求めている最中だから、結論は出ていなかったりするし、そもそもケースバイケースのケースだって山ほどある。高校までの解答がある問題集とは性質の異なる学びの場という前提が共有されていないことに、わたしの胸のうちはざわざわした。
疑問に答えてくれないと不満を漏らした方は、おそらく六十代の方だと思われるのだが、きちんとした正解があり、教える側には答える義務があり、答えてもらって当然という態度の大人がいることに不安を覚えた。
大人になったら、専門家がいたとしても、口を開けて答えを待つのではなく、ネットで調べるなり、専門書を読むなりするしかない。そのような行動をして、「自分はここまでしか調べられなかった。わたしの理解はここまでです。この先を知るためのヒントがほしい」と言えば、相手は知識を分け与えてくれるかもしれない。
何に対して疑問を感じるかは、自分の知識と感性次第である。そして、無知を埋めるのは自分の仕事だろう。老いも若きも、「曖昧さ」への耐性が低くなっているのだろうなと思った。何もかもがわかっている専門家なんていないし、安易に答えを出すのも、非常に危険であるとも思う。
答えがないことに苛立ったり、腹を立ててはいけない。「答え」なんて誰もわからないから、わたしたちは学んでいる。それに「答え」を知るより、「学ぶ」という行為そのものの方が、ずっと尊いではないか。
「わからないこと」に気持ちをかき乱されるのも一興。時々、合点がいって、腹落ちする喜びが待っているのだから、気長にいこうではないか。
こんな説教染みた記事を書いてしまったが、わたしは疑問を疑問のままにしておく「放置力」があるだけなのだろう。アンパンマンの主題歌で「何のために生まれて何のために生きるのか わからないまま終わる そんなのは嫌だ」とやなせたかし先生は書いたが、わからないことだけは、よくわかっている状態で終わるのはそれほど悪くないと思っているし、おそらく全然わからないまま死んでいくのだろう、とほぼほぼ確信している。
それにさ、そもそも、「わかる」って何なのだろうね。
(「問いに価値がある」「無知の知」みたいな話で、ごめんなちゃい)
チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!