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なりたい自分にもなれないし、やりたい仕事もやれていない

一昨日は、こんなつぶやきを書いた。

勤務している途中から下半身にこわばりを感じたし、歩きにくかった。帰宅後は、それがさらにひどくなり、痺れがあるように感じられた。翌朝には頭痛もあり、何とか体を引きずるようにして、一日働いた。

ただ、こういう症状って、はじめてではない。

去年の3月頃にもなっている。そういえば、当時は、前職を辞めたい気持ちがピークだった。ジョブホッパーになりたくなかったのだが、自分の履歴書を汚してもいいから辞めたかった。

今の職場の人たちは、善良だ。善良すぎるぐらいだと思う。それゆえの悪気のない無神経な物言いがときどき耐え難い。そのようなストレスが積み重なり、ちょっとずつ、拒否反応が出始めているのかもしれない。

なぜ、それがわかったのかというと、今朝、目覚めたら爽快だったからである。睡眠時間がいつもより長めでよく寝た、ということもあるが、最大の理由は仕事がないからだろう。

「仕事がないから元気」って、「学校がないから元気な子ども」とそう変わらないような…。つうか、吾輩は子どもである。子どもを育ててもいないし、親類縁者を養わなければならないようなプレッシャーにも晒されていない。とはいえ、孤立無援で、自分が倒れたら、一発OUTだとは自覚している。会社も、社会も、世間も、身内も、誰も信用していない。それは自らのメンタルを蝕むが、結局、どんな環境にいても、人間は自分ひとりで立たなければならないような気がする。もちろん、物心を支えてくれる、生活の一部を肩代わりしてくれる誰かがいてくれたら良いとは思う。ただ、その人だって、自分と同じぐらい面倒くさい人間だろうから、その対応で結構な時間が取られてしまうだろう。

一昨年の無職のときは寝てばかりいたようだ。本格的にメンタルダウンすると活動停止状態になるのだな。当時は好きなミュージシャンのライブに行ったにも関わらず、あまりにうるさくて耳を塞いで、頭痛まで起こしていた。我ながらヤバい状態だった。気分転換になるどころか、絶望が深まった。

今のわたしは、仕事に行くとなると、気分が落ち込むので、「非定型うつ病」なのかもしれない。いわゆる、若者の甘えだと呼ばれている病である。プチ適応障害なのかもしれないが、休んだからといって、何かが改善されるわけでもない。

なりたい自分にもなれないし、やりたい仕事もなかなかやれていない。わたしは文筆業を生業にしたかったのだけれど、それが全然遠い。その焦燥感は十代の頃からあった。十代の頃は強迫観念と怒りがあり、二十代は苦痛とまだ時間があると期待だけしてうまくいかず、三十代はほかのことで職業的に成熟しようとしながらも、焦燥感が自分の後ろ髪を引っ張り、人間関係を破綻させてしまうこともあった。今は焦燥感や怒りを維持して抱える体力がなくなってしまった。だから、精神的に楽になったものの、味気なさとうっすらとした疲労感がある。

一番まずいのは、創作衝動が失われつつあることで、もう仕事みたいに書くことを作業的に設定して、やっとこさ、noteで日記を書いている。やはり、十代と二十代はホルモンが人間を突き動かしていたのだな。

いまだに頑張り切れなかった自分を許すことができていない。そして、自分に引導を渡すのが早すぎたかもしれないとも思う。ただ、それは経済的自立を優先したからこそ、仕方がない側面がある。生活が安定したら、たくさん書けるはずだと思っていたが、フルタイムの仕事をしていれば、そんなに時間はないし、ストレスもあるので体力的なきつさもある。

非正規雇用として時給で働けば、この仕事をクビになったらどうしようと不安にかられるので精神衛生上、あまりよくないことはわかっている。

野心が前面に出てしまうと、地に足のついた行動ができなくなる。感情が乱高下して、適当なインプット、アウトプットの作業すらできなくなる。

ただ、わたしは心のどこかで、今の自分でいいと思っている節もある。文筆業をやれば賞賛どころか批判にさらされ、仕事量は安定せず、日常茶飯で怒り狂って、不安と苛立ちに支配されていたであろうことは容易に想像がつく。もし、文筆業一本で暮らそうとしていたら、もうこの世にいなかったかもしれない。

(当時、編集者とうまく関係性を作れなかったことは今でも悔やまれるが、上から目線に耐えられず、うまく立ち回れなかった。給料をもらえる仕事なら謝れても、原稿に対する批判は受け止められなかった。社会人経験のない頃だったので仕方がない。今、売文業で暮らせている人は、そんじょそこらの会社員なんかの数千倍、コミュニケーション能力が高い人たちなのだろう)

夢を遠ざけたのは生き延びるためで、延命措置だったような気もする。真正面から向き合うのは首を絞める行為だ。今の自分は、日常と仕事をモルヒネにして、やりたいこととすべきことをやらずにいる。それは真綿で自らの首を締めるような行為でもある。

そして、今の時代は、誰もが書く時代であり、誰もが書かなければ存在を示すことができなくなっている。書くこと自体は特別なことでも何でもなくなった。そして、誰かを強く求める時代でもなくなっている。十代の頃は、特定の作家の新刊が書店に並ぶのを心待ちにしていたが、今はおびただしい新作を追うことすら面倒で書評すら読んでいない。偶然、目に入れば、手に取るかもしれない。

スマホを見れば、情報過多で、あなた好みの商品と情報であふれかえっていて、ゲームもあれば、友人からのテキストメッセージ、知り合いのインスタを見て、お気に入りのYouTuberの新作動画を見れば、もう時間など残されていない。

わたしが書くことを誰も待っていない。誰にも期待されていないうえに、求められてもいなくて、しかもお金にもならないことをやれるほどのパワーもない。

ただ、どうせ死ぬのだから、もう少し悪あがきしたいとは思っている。

(仕事に行きたくないと具合が悪くなるって記事を書く予定だったのに、思わぬ内省をしてしまった)



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