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#読書感想文 C.ダグラス・ラミス(2013)『増補 憲法は、政府に対する命令である』

C.ダグラス・ラミスの『憲法は、政府に対する命令である』の増補版を読んだ。2013年8月に平凡社ライブラリーから出された一冊である。

ここのところ、政教分離が話題になっているが、どうして駄目なのか、きちんと説明することができなかった。また、憲法や法律を骨抜きにして、得をするのは権力者や資本家だけで、市井の人々は憲法を拠り所にして闘うしかないのではないか、という問題意識が生まれたということもある。

パワハラで仕事を辞めることになり、ブチ切れた。悲嘆にくれるというより怒り狂った。わたしは幸運なことに、それが原因で精神疾患を患ったりすることはなかったのだが、一歩間違えば、普通の生活が営めなくなっていた可能性もある。

「やめてやらあ! バーカ、バーカ、バーカ」という感じで退職したのだが、その後に、ものすごい落ち込みと倦怠感に苦しんだ。そのときどきの気持ちは、noteに吐き出し、コメントで励ましてくださる方もいて、何とか日々を乗り越えられた、という実感がある。

書くことで自分自身の気持ちを整理して、読まれることで承認欲求を満たしていたのだと思う。でも、そのような過程を経て、自分が追い込まれたのは、「無知ゆえだったのでは?」という疑念がわいてきた。憲法や法律といったルールを知らないと、いつまで経っても、どこに行っても、不毛な駆け引きを繰り返すことになる。苦い経験を経て、わたしは自分の無知によって生じる不利益に、本気で向き合うことになったのである。知らない方が幸せだなんて思わない。知ったうえで行動できるほうが、絶対にいい。

というわけで、国のルールの中で一番偉い(最高法規である)「憲法」の勉強を始めていきたい。著者のC.ダグラス・ラミスさんは、津田塾大学で政治学を教えていた人で憲法学者ではない。

この本のタイトルは、憲法第九九条からきている。

第九九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

『増補 憲法は、政府に対する命令である』p.50

憲法はアメリカ占領軍の押しつけ憲法であり、日本人にふさわしくない、というようなニュアンスで改憲を主張する人々は少なくない。それに対し、著者は以下のことを述べている。

押しつけ説のもう一つの言い方として、「アメリカによってアメリカ風の憲法が押しつけられた」というのがある。

しかし、日本国憲法は、本当に「アメリカ風」なのか。じつは共通するところもあれば、かなり異なるところもある。たしかに、主権在民の原則、人権条項など、アメリカ憲法との共通点はある。

しかし、大統領制ではなく内閣制になったのは、明治政府と同じだろう。それから、たとえば、学問の自由(第二三条)、結婚の自由(第二四条)、健康で文化的な生活権(第二五条)、勤労者の団結(第二八条)などのような社会的人権条項は、アメリカ憲法にはまったく入っていない。

『増補 憲法は、政府に対する命令である』p.77

ここで取り上げられている四つの条項は、生活に直結しており、すごく大事なものだ。それがアメリカにはないのである。その事実を踏まえると、すごくラッキーな気がしてくる。そして、著者は政治家が「押しつけ憲法」だと苦々しく思うのは、日本の民衆による護憲活動による押しつけだからだ(p.80)と述べる。確かに、権力者は、市民がパワーを持つのを嫌がるし、市民のパワー自体に腹を立てていることは想像にかたくない。

憲法第九条を提案したのは当時の総理大臣の幣原喜重郎とマッカーサーだったという説(p.81)に触れ、そこには集団的自衛権も、国防費のことも書かれていないと指摘している。

日本国憲法の前文への言及もある。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。

日本国憲法 前文

「平和を愛する諸国民しか、信頼しない」と述べられている。つまり、信頼する人をかなり限定している(p.90)という指摘には驚いた。というか、そのように読めていなかった自分の読解力のなさに驚いた。

そして、明治憲法についても論じられているのだが、絶対に戻りたくない、と思ってしまった。

第二八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ信教ノ自由ヲ有ス

第二九条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

『増補 憲法は、政府に対する命令である』p.103-104

28条はちゃんと臣民としての義務を果たしてくださいね、29条では法律の範囲内でやってね(あとで禁止する法律作るかもしれないけど)、と条件付きになっている。なんというか、「毒親感」があるよね。主権在民じゃない。

そして、第10章では政教分離をなぜしなければならないのか、といったことに紙幅が割かれている。

神政政府の傾向として、政治権力者である聖職者の行為を制限するのではなく、その権力を用いて国民の行為を制限することが多い、ということである。(中略)もっともわかっているのが聖職者であるのならば、普通の人の別の意見に耳を貸す必要はない。神政政治はこのような考え方になりがちなのである。

『増補 憲法は、政府に対する命令である』p.155

そして、神の代理として権力を使う人間は、自分に責任がないと考える、責任を取るのは自分の後ろにいる神だ(p.156)と考えるであろう、という指摘には背筋が凍る。為政者が神を理由に市民を抑圧したら、やりたい放題になる。マイノリティや外国人、無神論者は「異端者」として弾圧される。憲法第二十条の政教分離がなぜ必要な理由がよくわかった。為政者に対して「そこまでひどいことはしないよね」などという変な期待もしてはいけない。

そして、わたしが感動したのは第九七条である。

第九七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

『増補 憲法は、政府に対する命令である』p.166

基本的人権は日本人の努力によって獲得されたものではなく、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である」と宣言しており、もはや清々しい。人類の英知の恩恵に与れているのだから、やっぱり、ラッキーではないか。

そして、自民党の改憲草案についても、付論がある。

日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

『増補 憲法は、政府に対する命令である』p.189

どこが悪いの? 当たり前でしょ、と思う人もいるだろうが、土足で内心にずかずかと上がり込んでくる感じがするのは気のせいだろうか。空気を読まずに発言する人は和を尊ばない人になってしまうし、家族と助け合いたくない人、社会から冷遇されている個人は、国に無視・棄民されて終わりそうである。そして、著者はこの家族主義イデオロギーは日本の伝統でも何でもなく、明治時代の権威主義的な家族制度に過ぎず、女性の人権がかなり抑圧されていること(p.218)を指摘している。「こども庁」が「こども家庭庁」に名称変更されてしまったのも、この草案をきちんと読んでいた人なら、想定できていたのではないだろうか。

そして、改憲草案では、緊急事態宣言をすると内閣は立法権を持つことになる(p.227)。

自民党改憲草案第九九条3項(緊急事態に入った場合)その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。

「最大限」という言葉を聞いて安心しそうだが、(中略)「最大限」は普通の会話では、「なるべく」とほぼ同じ意味だろう。(中略)この草案の「最大限」という言葉には、人権を尊重することには限度があり、その限度を越えると、人権を守らない状態に入る、という意味が込められている。

『増補 憲法は、政府に対する命令である』p.228

条件付きの基本的人権はヤバい。含意されているものを読み解けないと、まずいことがよくわかる。政治家が国民を騙すようなことをするわけがない、などとカマトトぶっていたら、あっちゅうまに人権が蹂躙されそうだ。

本書の語り口は全体的にユーモラスで、読みやすく、取っつきやすかった。出版された当時の書評を読んでいて、「いつか読もう」と思っていて、やっとこさ、読んだ。

近いうちに憲法そのものを読んでみたい。

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