退職届は離婚届のようなもの
今回、退職届を書きながら、次の会社とは添い遂げたい(定年退職まで勤めたい)、としみじみ思った。
そのためには、謙虚に真摯にやっていこう。日々、無理はしない。70%ぐらいで余力を残して、最低でも10年は働きたい。(ただ、過度な期待をしていると、来年の今頃もまた転職活動に四苦八苦している可能性もゼロではない)
転職先も、最初は契約社員なのだが、時給ではなく月給である。その有難さに涙が出る。時給だと、勤務日数が少なければ給与も下がる。給与明細を見るとき、とても心臓に悪かった。
給与自体も1.6倍になる。前職が低すぎたので何とも言えないのだが、低すぎると貯金ができないことが問題だった。毎日、眠い目をこすりながら、弁当を作っていたのも支出を抑えるためだったのだが、仕事が暇で退屈だと退勤後にいろいろできてしまうので、支出自体はそれほど減らせなかった。
10年のキャリアがある仕事に戻るので、それほど心配もしていない。起こり得る悪い出来事も想定の範囲内である。そのうえ、転職先は人員が多いので、精神的な負担は減ると思われる。
とはいえ、正しい選択をしたと確信はできていない。わたしの選択は間違いだったかもしれない。
9か月間働いていた職場は、とにかく暇だった。暇すぎて、Excelの関数の練習をしてしまったり、手帳に帰宅後のTODOリストをせっせと書き込んだりしていた。実質、働いているのは3時間ぐらいだったので、まったく疲れなかった。仕事の後に、ジム通いをする人の気持ちがはじめてわかった。アフター5に重点が移ったのも社会人としてはじめての経験だった。しかし、もう一生分サボった気がするし、こんなお遊びみたいな仕事をしていたら娑婆に戻れない、とも思った。何より、やることがない職場に身なりを整えて出社する、あの不毛さは耐えがたいものがあった。満員電車に揺られ、仕事のない職場に行き、電話番をしていると頭がおかしくなりそうだった。朝、起きるのがつらくて仕方がない。20代の頃、勤めていたブラック企業だとやることはたくさんあるので、起きられないことはなかった。なぜ、仕事に行く必要があるのか、といったことまでは考える必要がなかった。
もしかしたら、「あなたは雑用をしていればよい。なぜなら、重要な存在ではないのだから」というメッセージを仕事を通じて受け取り続け、職場と仕事が嫌になってしまったのかもしれない。
ただ、自分が正社員や管理職のときは、こういう態度を端々で出していたような気がする、という反省もある。
やっぱり、常に他人には親切にして、感謝しておかないといけないな、と思う。情けは人のためならず、で循環するとは思っていない。わたしの頑張りは循環していないし、誰も助けることができていない、という絶望もある。だから、その場その場で感じよく、でも自分が関わるべきところと、そうでない部分を分けて、就業時間内でしっかり働くしかない、と今は考えている。