#読書感想文 益田ミリ(2023)『ツユクサナツコの一生』
益田ミリの『ツユクサナツコの一生』を読んだ。新潮社から2023年6月に発売された単行本である。
どこかで話題になっていたし、(ネットやSNSを何の気なしに見ていて出会う本は情報源を忘れてしまうことが多い。まずいと思っている)それにわたしは益田ミリさんが以前から好きだったので、軽い気持ちで読め始めた。
すると、一読して号泣。自分が泣いた理由がよくわからなくて、もう一度読んでみたが、また号泣してしまった。なぜこんなに切ない気持ちになるのかの謎はいまだに解けていない。
本作の主人公であるツユクサナツコは、コロナ禍の2021年を生きる漫画家の女性である。漫画家といっても、仕事は地元のタウン誌の四コマとWEB漫画だけで、ドーナツ屋でアルバイトをしている。一戸建ての実家で定年退職した父親との二人暮らし。母親は病気で亡くなっており、姉は東京で結婚し、子育てをしている。ナツコはドーナツ屋の職場や、その行き帰り中で感じたこと、考えたことを「おはぎ屋 春子」という作品に落とし込んでいく。創作手法としてはセミフィクションである。読み手は、毎回、ナツコの暮らしと、その中にある創作の過程を垣間見て、最後は彼女の作品を読むことになる。
コロナ禍で大学構内に入れずリモートで授業を受けるためしぶしぶ実家に帰る大学生、マスクをつけた小学生、ドーナツ屋にくる認知症の男性などが登場する。彼らは通りすがりの人なのだが、ナツコの人生と一瞬交わる。それをナツコは逃さず、漫画にしていく。
それだけでなく、ナツコ本人がコロナワクチンの予約を電話で頑張ったり、かき氷を食べながら貧富の差について同僚と話したりする日常もある。「コロナが終わったら~」の仮定の話ばかりしている自分に気づいたり、交番の死者数からコロナの感染者数と死者数を連想してしまったり、と我々の日常の中心に新型コロナウィルスが鎮座していたことを思い出させられた。ウクライナとロシアの戦争が終わらないことも、ナツコは考えている。
亡くなった母を思う日もあれば、東京の出版社からWEB漫画の連載を依頼され、頭の中でタンバリンを叩くくらい興奮する日もある。
ナツコは絵を描くことが好きで、三十二歳になっても漫画を描き続けている。なぜ自分が継続できているのか、ふと、その理由を考えたりする。ある日は、家庭の経済的事情により、美術大学に行けなかったことが、棘のように彼女の胸に突き刺さっていることがわかる。私立に通う小学生を見かけたときにお金のことを考える。人生を大きく支配する運やおみくじ的な世界を恨みはしないが、忘れもしない。悲劇のヒロインとして自分の不幸をことさらに強調したりはしないが、ナツコはきちんと折り合いをつけて、粛々と生きるしおらしい人ではない。ひっかかりはひっかかりとして残したままでいる。物わかりよくあきらめたり、痛みを甘受しなくてもいいことを彼女は教えてくれる。
ナツコは自分を守るための鎧としてオーバーオールを着ている。帰宅してから、「よし、漫画、書こう」と机に向かう姿は、祈りにも似ている。祈りとは、繰り返し反復されるものであり、創作行為や表現行為を続けるのは、それによく似た行為でもある。彼女の意思の強さには感服させられたし、見習わなければと思った。
日常の尊さと壊れやすさ、家族との関係、過去の記憶と現在が交錯して、コロナ禍の日々にリアリティを感じる。ナツコは大学進学を断念し、会社員になったものの、うまくいかず引きこもりの時期を経て、現在はアルバイトをしながら実家で漫画を描き続けている。きっとナツコは、この社会、この世界のどこかにいるのだろう。忸怩たる思いを抱えながらも、気高く生きている。
人間は誰しも自分自身の小宇宙を持っている。それは個人の主観、世界観、感性、感情、記憶、思念によって構成されている。この世には人の数だけ、小宇宙がある。ナツコは自分自身を生きるために自分の小宇宙を守りたかったのだろう。その小宇宙が突然失われることは恐ろしいことだ。しかし、人間が生物である以上、それを避けては通れない。
そして、本作は入れ子構造(マトリョーシカ)になっていることも、一つの特徴である。漫画家のナツコの暮らし、その暮らしが反映されたナツコが描く「おはぎ屋 春子」や試し書きの作品も出てくる。ナツコは春子に話しかける。ときには自分が創作した春子と自分が別人格であることを認識したり、春子の生き死には自分次第である、とつぶやいたりする。頭の中で考えていた春子も、漫画にアウトプット、自分自身の頭から外に出すことによって、作者の手を離れていく。ナツコと春子の往来を見て、読み手は、益田ミリとナツコの対話があったことを自然と想像する。ナツコの向こうには益田ミリがいる。作品内の作品だけでなく、書き手を描く書き手がいるというメタ構造が、作品に特別な趣を与えていると思う。
「わたしの部屋」「わたしのつくえ」があれば、漫画は描ける。創作は続けられるのだ。そのシンプルな事実に身の引きしまる思いがした。ドーナツ屋の同僚との「威張る客より、見下す客のほうがたちが悪い」という会話も、妙に頭に残っている。
なぜ、泣いてしまったのか、まだ言語化できていないのだが、おそらくわたしもナツコのように、自分の世界、自分の小宇宙を守りたいと心のどこかで願っていたのかもしれない。
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