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転職活動のゆるみと現状維持バイアス

転職活動をしているが、持ち駒がなくなってしまったので、小休止中である。(持ち駒がない、とは選考途中の会社がない、という意味である。)

今のところの四つの会社に挑み、桜散った。
・書類選考落ち 2社
・一次面接落ち 1社
・三次面接落ち 1社

書類選考落ちの2社は、リクナビNEXT経由のレジュメ応募である。このシステムが何とも、わかりにくく、やりにくいのってわたしだけで、ほかのみなさんはうまくできているのだろうか。リクナビNEXTのサイト内での企業とのやり取りも微妙で、もう苦手意識ができてしまった。

面接で落ちた2社は、noteでネタにできたので、よしとしよう。

在職中の転職活動は、落ちても、それほど落ち込まずに済むのでありがたい。当面は食うに困らないし、会社に行けば、業務があるので、気が紛れる。無職のときは、もっと一喜一憂の度合いが激しくなる。

ある職場に所属して、ぼんやりしていると、一週間などあっちゅうまに過ぎ去る。ヤバい、求職活動せねば、と思う。で、これこそが、現状維持バイアスというやつなのではなかろうか。現状もそう悪くはないから無理しなくていいよ、と頭のどこかで考えているのだ。これは、まずい!

現状維持バイアス(status quo bias)
変わりたい、でも変わりたくない

ある日、あなたが行っている仕事とほぼ同じ仕事内容で、給料や待遇がより良い企業から転職しないかと誘われました。企業の経営実績についても丁寧な説明を受けました。あなたなら、どうしますか?

A 転職する
B もう少し考える
C 転職しない

私たちは、ある選択場面で、たとえば新しい製品などを提示され、それが非常に優れていることを示されたとしても、それをすぐに取り入れることに抵抗を感じることがあります。

例題でも、(A)「転職する」を選択した人は少ないかもしれません。変化(ここでは転職)することで「何か得られるかもしれない」という期待よりも、「何か失うかもしれない」という不安のほうが大きく、現状を維持しようとするバイアスがかかります。例題の場合も、給料や待遇、企業の実績が良くても、職場環境や人間関係などに問題があるかもしれない、などと考えてしまったかもしれません。

このように、選択肢にメリットとデメリットが共に存在するとき、リスクや失敗を恐れて非合理的な選択をすることを現状維持バイアスといいます。人は、客観的に見て合理的であったとしても、損失回避や不安など主観的な要因によって選択できないことがあります。

【参考文献】
カーネマン, D. 村井章子(訳)(2014). ファスト&スロー(下) 早川書房

錯思コレクション100

引用元の例ぐらい好条件が揃っていたら、わたしは迷いなく転職する自信がある薄情者ではあるが、日常とかルーティンは一度リズムができてしまうと、変えるのが億劫になってくる。

しかし、今の仕事は調整作業と書類づくりばかりで、面接でこの話をしても、あまり反応が芳しくない。結局、前職の話をする時間が長くなっている。現職では、新しいものを作ってないからだろう。要するに下請け作業なので、評価されないのだ。でも、誰かがやらなければならない仕事で、誰かの役には立っている。しかし、誰にでもできる仕事である。このような仕事は、世の中にごまんと溢れている。まあ、正社員でやるなら悪くない業務だと思うが、非正規でこれに甘んじていると、のちの自分の首を絞めることになりそうな予感がある。それに今の職場に半年以上いて、新たなスキルや考え方を身につけた感がまったくない。中途採用だから、当たり前といえば、当たり前なのだが、新しいことを経験した、という実感がないのは、大きな問題であると思う。

ジェネラリストとしてやっていける人は、社内政治と現場調整、書類づくりを一生やっていればいい。それで高給がもらえ、解雇の心配もなければ、そこで現状維持をすればいい。ただ、弊社のジェネラリストは御社では役に立たない、という現実がある。それに、今の会社と同じ給料を払ってくれる会社はない。現実問題として、日本の雇用は就職ではなく、就社であることが多い。汎用性のあるスキルなど身につかず、ただ属人的な仕事をこなし、どこにも行けない人を増やしているし、当人がそれを一番自覚しているので若手を平気で潰し、自分の生き残りゲームに汲々としている。

ただ、就職氷河期世代(ロスジェネ)以降の世代に、ジェネラリストポジションなんて、それほど多くは残されていない。高度経済成長が終わり、失われっぱなしの三十年で、多くの経営者は、以前より、階層性と出自に左右され、封建的な世界への回帰している。結果的にホリエモンが衆目を集めたのは、社会資本と文化資本を持たない彼が異端だったからで、彼に夢を見た短絡的な大衆には、ある種の物悲しさがある。

(わたしは、某岩〇書店が「弊社に知り合いがいない人は採用試験を受けないでほしい」と求人広告を出したとき、心底失望した。「文化資本のある人だけが受けてください。教養なき野蛮人がわたしたち高貴な者の貴重な時間を奪わないでください」という明確なメッセージをしかと受け取った。出自とコネでしか評価ができないなら、求人広告なんか出さずに知り合いに声をかければいいのに、と思った。恥知らずで選民的でKKKとナチズムにそっくり。自〇党みたいな出版社で、岩〇ホールが潰れたのも、貴族的な発想しかなかったからだと思っている。全方向に攻撃的なわたし、すごい笑)

話を戻そう。結局、残るのは、ジョブ型(専門職)であると思う。今後、雇用の流動性は高まるだろう。流動性というのは、労働者にとってマイナスではあるが、時代は変わる。思い切ってジョブ型の仕事に切り換えた人々の方が、70歳まで働くことができるかもしれない。ただし、高給取りではない。

現行の年金制度は納付期間が60歳までだが、65歳に延長されるというニュースがあった。つまり、65歳から70歳までは受給待機期間になるおそれがある。要するに今は、リタイアが60歳から65歳に許されているが、大半の人々が70歳まで先送りされる可能性があるのだ。しかし、60歳以降にも、高給を払い続ける職場はあるのだろうか。

制度が変わっても、生物としての衰えは変わらずやってくる。わたしは60歳定年制度は変わらない、と思う。60歳以降は再雇用となるだろう。そして、これまでの年功序列的な賃金制度の恩恵を受けられるのはバブル世代で終わる。たぶん、子どもを大学に行かせられた最後の世代が、80年代から90年代の最初に、滑り込み的に正社員就職できた人たちなのだろう。この世代の人と話していると、年を取っていても、妙に明るく、若々しく、結婚にも離婚にも恋愛にも積極的である。社会を信用できている感じがする。

比較すると、ロスジェネ世代はなんだか暗い。わたしはロスジェネより下の世代なので、彼らの艱難辛苦を間近で見てきて、社会をそもそも信用していない。平気で斬り捨てたにも関わらず、経営者が「四十代の人材が足りない」などとのたまう姿を何度も見てきた。あまりに厚顔無恥で反吐が出る。

でも、不労所得も資産もないので働かなくてはいけない。そんなとき、大きくは稼げなくとも、専門職として資格を取ったり、業務をこなしていけば細く長く続けられるのではないか。もちろん、テクノロジーの進歩の速さはすさまじいので、常にアップデートや情報収集は必要だろう。それこそ、75歳まで働けてしまうかもしれない。もちろん、非正規や業務請負になってしまうとは思うが、何もないよりはマシだろう。支給される年金だけでは生活に不十分であることはわかりきっているのだから。

年収数千万、数億円の人たちはそれだけ利益を出しているのではなく、年収二百万の人たちを搾取できる構造のなかで、運よく上層に位置取りができただけだと思う。構造的にサービス業がこれだけ増え、日本からは新しい製品やWEBサービスは産まれていないのだから、搾取以外には手段がないと思う。中間搾取を制度化した日本は、汚職まみれの中国や中南米、アフリカ大陸の公務員とそう変わらないのではないかと思う。合法化されているだけ、よりたちが悪い。

そんなわけで、雑務に注力していたら、取り返しがつかなくなる。もちろん、大企業でまったり働けて、ワークライフバランスが保証されている人はそれを手放すべきではない。そうではないわたしは、動き続けるしかない。

現状維持バイアスのせいで、ここ最近、遊んでばかりで困ったなあ、というトホホ系の記事を書こうと思っていたのに、75歳までの生き残り戦略記事になってしまった。「書く」という行為は、本当に恐ろしい。この記事を書き始めて、すでに3時間も経過している。我ながら、どうかしているぜ。

チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!