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私が見た南国の星 第4集「流れ星」⑳

田舎の病院って怖いですね。日本の常識は通用しないようです。第4集が終わります。さて、このホテルはどうなるのでしょう。野村さんの体調も心配です。
 

鈴木先生との出会い

 そんな生活の中で、知らぬ間に自分の体調に異変が起きてしまった。トイレに何度行っても残尿感があり、痛みに耐えられず深夜2時半過ぎだったが人民医院へ阿浪が連れて行ってくれた。医者は仮眠をしていたらしく、病院へ着いてから30分くらい待たされたが、検査は何もしてくれなかった。問診だけで、「膀胱炎だから、注射をすれば治ります。3日間注射です」眠そうな表情で医者はそう言った。
 その当時は、医者は日本と違って診察の際に手を洗う習慣がないようだった。今まで何度も病院には行ったが、医者も看護士も手を洗った場面を見たことがない。海口市の大病院の医師たちも同じだった。本当に怖い現実だと思いながら、点滴の注射を受けた。病院から戻っても症状がひどくて、今回は大変な数日間を過ごさなければならなかった。
 看護師も注射針を入れるのが下手で、何度も針を刺したり抜いたりして我慢が出来なくなり、
「いい加減にしてよ!自分で入れた方が痛くないかも知れないから、私が自分でやります。もう一回失敗したら許さないからね」
と、冗談を言ったお陰で、やっと針が血管に入り点滴が開始された。この日から数日間は、とても気分が悪く、あまりにも長引くため、広州にある領事館に良い病院を紹介していただくつもりで連絡をした。そこで、「深セン」に、日本国籍を持つ女医さんがいらっしゃると聞き、電話で相談をした。その先生は、とても親切で優しい方だったので救われた。この膀胱炎がきっかけで、その先生には何度もお世話になることになった。
「医療が遅れている海南島の田舎で、日本人の女性が、たった一人で頑張っていらっしゃるなんて素晴らしいです。何かご心配なことがある時には、遠慮しないでご連絡を下さいね。無理をしないで、頑張って下さい」
と、励ましの言葉を戴いた時は涙が出た。お金を先に支払わなければ診察をしない中国人の医師とは全く違うと思った。私にとっては本当に感謝の出会いだった。この医師は鈴木先生と言って、中国人として生まれ育ち、日本国籍を取得されて深センで頑張っていらっしゃるのだった。その鈴木先生とお話しする度に私は元気になることが出来た。社長からも膀胱炎の薬を送っていただけると連絡が入り、ホッとした私だが、やはり病気に関しては本当に不安が多い海南島生活だ。病気になる前に、自己管理をする事が一番大切だとわかっていても、自己管理にも限界がある。体調不良時に対応処置が困難という現実は本当に厳しい。 
 海南島の素晴らしい自然の中での生活は、私たちにとって最高の環境だが、それだけでは安心はできない。どこで生活をしても、確かに不安なことは数多くあるが、四年間の長くも短かった海南島生活が、私の人生を大きく変えてしまったのは事実だった。それが良いのか悪いのか、判断は難しいが、生きる喜びを与えてくれたこの島には感謝をしたいと思っている。日本で生活をしていたら、決して味わうことが出来ない「苦と喜」の文字は、命ある限り自分への挑戦だと解釈をしている。

四年目を終えて

 この数年間に私を支えてくれた人々の愛と、海南島の自然は、今も私の心を大きく包み込んでくれている。そして、巣立っていった小鳥たちも、私の創り上げた巣にいつか戻ってくれると信じている。
 ここで私の人生が終わったわけではない。これからも続く海南島生活の中で、この年から私の人生行路に変化が少しずつ起きてきた。この時は、自分の人生の行く末を知る由もなかったのだが、ただ、ひたすらに自分の巣を守り、そしてヒナ鳥を育てることが私に課せられた運命だったような気がしている。
 正直なところ、この四年間の私は、誰かのためではなく、荒れた大地の上に立って、自分自身と向かい合って生きてきただけなのだ。形には残っていない私の人生だが、シロアリに食われた大木よりも、原生林で生き延びる雑草の方が私には似合っているような気がしてならない。私が見た数多くの星たちが、永遠の輝きを続けてくれることを祈り、この島でもう暫く生きて行きたいと願っている。 
「再び燃え上がる炎に、自分の身を投じたい」それが私の最後の夢なのかもしれない。
 この四年間の思い出は、まるで蜃気楼のようでもあり、七仙嶺の地を踏んでから、長い時間が過ぎたが、今となってみると年月は蜃気楼ではなく、流星だったような気がしてならない。そして、今日という日は、もう二度と来ないのだから、その一日に最善を尽くして人生を全うしたいと願っている。そしていつか、あの輝く星たちと再び会える日を、いつまでも待ちたいと思っている。

   

   

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