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リーダーのエッセンス

私は現在、社内基幹システム入れ替えに伴う、サブリーダー的な立場を担っている。

しかし私の進言の元、とあるメンバーをプロジェクトから外した。

理由はシンプルだ。

そのメンバーが期待に応える働きをせず、責務を全うせず、現場に混乱を招いたからだ。

それも一度や二度ではない。
その度に要望は伝えたつもりだ。
しかし、改善は見られず、やる気も見られず、状況は悪くなるばかり。
やむを得ず私は、チームリーダーに相談し、リスクを明確にし、代理人を立てたうえで、担当者を変えた。

いまだに、今回の私の決断が適切か、よくわからない。本人の成長の機会を奪ったわけだし、それを期待した上で、プロジェクトメンバーに抜擢した。

だが、事態は急を要した。さすがに、人事権を発動させるレベルまでに対処しなければいけない緊急性事案にまで発展してしまったのだ。

その後、代理に選任したメンバーは、良い働きをしてくれている。結果はまあまあ良い。
組織にとっては、今回の人事はよいのだろう。

だが、クビにした当の本人のフォローも必要だ。私は、彼を人として気に入っているため、またチャンスがあれば、機会を提供したい。

(閑話)

適材適所というのは、非常に都合の良い方便で、合理的な決断を促進する一つの理論だ。
けれど、そこにミステリアスな化学反応は無い。

もし、あの時彼をクビにせずに、継続するための最後の面談を、根気よく時間投資したら、また違う結果が出ていたのかもしれない。当たり前だが、仕事を任せた地点で、彼を成長させなかったのは、我々の失敗だ。
リーダーシップの開発は、職務を割り当てれば勝手に開発されるものでも無いことが、ある意味実証された。

この失敗から学ぶべきは、体系的なリーダーシップ開発を私自身が会得し、伝授しなければならない。いわば、コツというものだ。
リーダーシップマニュアルか。
こりゃ、難儀だ。再現性のあるものでなければならないし、自分のエッセイを全て注ぎ込まなきゃ実現できない。下手な個人の経験談など、逆効果だ。しかも、それは単なるインプットで、結局最も効果のある開発は、本人の積極的な意思一つだ。

そもそも、リーダーとはなんだろう。
リーダーは、文字通り先頭を歩く人だ。
おそらく、目立ちたがってリーダーをやる人もいれば、好きでやっているうちに自然とリーダーになっている人もいるのだろう。
リーダーというのは、組織においては、指揮体系を明確にするための便宜上の呼称な気がする。
「あの人はリーダーだ。」と言えば、組織に所属する人は、その人をリーダーだと、なぜか認識するし、大抵の場合は、リーダーは権限があるのだから。

だが、リーダーは批判されるし、馬鹿にされるし、吊し上げられる。
やりたいことをやれるリターンは期待できるし、得られるものを得られる可能性は充分にある。
だけど、リーダーは非難されるし、理不尽の連続で、大抵のことはうまくいかない。
それでも、自分が達成したいことを得るために、ひたすらに努力する。
ある意味、頭のネジが飛んでいるのが、リーダーの資質に必要なのかもしれない。非情で、情熱的だ。

当のクビを言い渡された本人は、
「気が楽になった。」
と、笑顔で応えていた。

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