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愛しき日常という感覚

今日は、2023年11月3日(金)、文化の日。今日は休み。

あまりにも仕事が忙しく、残業が続き、今日は11時まで惰眠を貪っていた。

しかし、流石に腹が減ったので、重たい体を起こし、布団から這い出て、その足でフラフラとコンビニにパンを求めに買いに行った。
外はすっかり明るく、今日は昨日より暑かった。少し歩いただけで、身体が汗ばむ。相変わらずの日常で、近くの畑は計画的に収穫の時期に合わせて、いつも通りおじさんが計画的に耕していた。変わらぬ愛しき日常というやつだ。

今日は晴れていて、外を歩くだけでも気持ちよかった。コンビニまで、歩いて5分程度だが、寝起きの身体にちょうど良い。仕事中の忙しないスピードでの歩き方と反し、自分のペースでノタノタと歩いていた。本来は、このぐらいのペースで生活したい。のんびり、もたもたともっさり生活したいのだ。

コンビニに入ると、いつも不思議なぐらい同じ風景だ。それは、商品の陳列方法とかではなく、なんというか、日常の一部分に溶け込んでいる気がする。平和で穏やかな日常を愛する私にとって、いつもそこにあるコンビニというのも、大事な要素なのかもしれない。

コンビニでいつもの牛乳パンを買った。これ、美味いんだよな。昔から牛乳パンは好きだ。私は、街角の美味しいパン屋さんのパンも好きだが、コンビニのパンも好きだ。ローコストで、バラエティに富んだパンたちは、いつも味覚を満足させてくれる。コスパが良いのだ。

コンビニで買い物を終え、帰路につく。帰りの風景は同じ道だけどいつも違く、同じ感じはしない。近所の家は、庭の草を抜いていた。何かしら、必ず変化はある。いつも同じというのは、中々ない。

けど、つくづく思うのは、本当に仕事に忙しいと、日常を楽しむ余裕すら無くなる。心が貧しくなる感覚さえある。いつもそこに生えている草だって、花だって、そこにあるはずなのにない感覚に陥る。同じ風景化してしまう。そして、つまらない日常だと錯覚を起こしてしまう。

仕事が忙しいというのは、収入は入るけど、それと引き換えに何か失っているのだろうか?時間を提供した分、日常は侵食されるのだろうか?

感覚の世界は案外大事だと思う。なぜなら、日常の人間関係から、組織のあり方は、全て感覚で構成されている気がすると思うからだ。あいつは嫉妬深い、あいつはよくサボる、あいつは要領が良い、あいつは強かだ。全て、まずは感覚からきて、感情に働きかける。そして、何かしらの自分の世界観を構築する。それが日常を侵食することもあれば、何かしら日常を彩る時もある。感覚が全てなのかもしれない。

明日は、どう過ごす?

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