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我々はステレオタイプなのか


学生時代、海外のプロフルーティスト達のプライベートレッスンや公開レッスン、ミュージックキャンプ等沢山参加した。
クリスチャン・ラルデ、パウル・マイゼン、ヴァンサン・リュカ・ヴィンセンス・プラッツ…。世界の名だたるプレイヤーから技術を教えてもらった事に大変感謝しており、今は亡き巨匠達の音楽を直に経験出来た事は大きな財産となっている。
その中であるフルーティストに3日間連続でレッスンを受ける機会があった。
初日のレッスンで沢山指摘された事を翌日までに改善し演奏したところ、
「昨日とまるで違う!!」
「一日で別人みたいだ、韓国や日本の生徒は私が指摘した事をすぐに取り入れる。フランス人なんか意見の言い合いで生徒と喧嘩になるのに。」
と言われた。
私の感覚としては"師匠に言われた事は次のレッスンまでに改善し直しておく"と言う事は幼少期から当たり前であり、私以外の日本人においても音楽以外の習い事や稽古ごと、ひいては学校の教師との関係を考えても当たり前の感覚であろう。
この時は
「私の提案はすぐ真似出来るが、ではあなた自身の考えは無いのか?」
「全て師の解釈で演奏するのか?」
と暗に言われている様で、褒められたという感覚はなかった。
が、ではどうしたら良いのかもよく分からなかった。
他にもクラシックにおいては西洋人から見た一般的な傾向として
・日本人や韓国人は技術が優れているが音楽性に欠ける
・ノーミスで演奏する
・師に対して忠実である
と評される事は多い。

【日本人】というステレオタイプではいけないのか?

クラシックをやっていると一般的な日本人というステレオタイプに当てはめられることも多いし、実際自分もそのステレオタイプの【日本人】から抜け出せないというジレンマを抱えていた時もあった。
日本人教師が「日本人はこう演奏する人が多い」と日本人自らステレオタイプに当てはめて話す事もあった。


今、私が色々な経験をしてきてこの様な違和感を西洋人と日本人・韓国人に対して感じるのは儒教の教えと西洋の個人主義の違いから来る「人に物を教わる際の態度」の相違ではないかという考えに至った。
日本において儒教は仏教よりも早く大陸から伝来し、その考えが現代にも無意識の内に我々の精神・考え方に浸透している。特に五常のひとつである【礼】の「礼儀・作法に則る」「敬意を表す」という面が人から何かを教わる際に非常に重んじられる傾向があると感じる。
「門前の小僧、習わぬ経を読む」と言われる様に、師から何かを教わる際に我々は
「繰り返し見聞きし、真似をしていくことで習得していく」というスタイルが代々受け継がれていたのに対し、西洋においては「個人」の考えが重要であり師と弟子の関係性はあくまでも「個」と「個」なのである。
更に武術や伝統芸能の「型」がある様に、無意識のうちに師のスタイルを「型」と捉え、「型」としてスタイルや奏法を捉えているのかも知れない。
師の「型」を100パーセント習得し、再現性が可能になり更にそこから自分の解釈を加える事でいわゆる「型破り」、【個性】になるのである。


ずっと「ステレオタイプの日本人」から抜け出したくて「個」を全面に出せる人が羨ましかったが、「礼」を重んじる考えが間違っているとも思わないし、「個」が先行する西洋の考え方もまた悪くないと思う。
私は生徒に対し「この様に演奏しなさい」だとか「ここはこう吹きなさい」と指示
する事はない。もちろん間違った解釈や正しく無い奏法に訂正を入れる事はあるが、自分がどう考えているのか、何を感じているのかというはっきりとした意思を尊重するように心掛けている。
楽器の持ち方やスタイルもあくまで「私の場合」に適用されるだけであって、全員が同じになる必要はない。
西洋の文化を東洋人が学ぶ難しさは常に付きまとうが、我々は決して「ステレオタイプ」ではないと思うし無理に「個」を出そうと足掻くのも違うのだなと最近は割り切っている。


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