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シネマ歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』

友人からDVDを借りて視聴。あまりの衝撃に、野田秀樹自身が耳男を演じていた頃の『贋作にせさく・桜の森の満開の下』を見たくなりDVD-BOXを購入。さらには本作のBlu-Rayを購入して再見。坂口安吾の原作及び戯曲まで確認して….と、ここ最近はこの作品に取り憑かれていた。


『贋作・桜の森の満開の下』

現代演劇界を代表する奇才 野田秀樹が坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」と「夜長姫と耳男」を下敷きに書き下ろした伝説の舞台『贋作・桜の森の満開の下』。1989年に“劇団 夢の遊眠社”により初演されて以来、安吾作品のエッセンスを随所に散りばめた壮大な戯曲、恐ろしいほど妖しく圧倒的に美しい世界感が多くの演劇ファンの心を奪い、常に上演を望む声が聞かれる作品です。

https://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/sakuranomori/

ちなみに、『贋作・桜の森の満開の下』初演は89年2月。DVD-BOXに収録されているのは92年2月の再演時のもの。その後、2001年6月に再再演され、その時は堤真一が耳男を、深津絵里が夜長姫を演じていたようだ。さらには、2018年7月のNODA・MAP第22回公演では堤真一に変わって妻夫木聡が耳男を演じた。

シネマ歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』

そして、この『贋作・桜の森の満開の下』の歌舞伎版が『野田版 桜の森の満開の下』。野田秀樹が中村勘三郎と進めていた野田版歌舞伎は2001年『野田版 研辰の討たれ』から始まり、2003年『野田版 鼠小僧』、2008年『野田版 愛陀姫』、そして勘三郎の逝去を受け一時中断していたが、主演に中村勘九郎を迎えて満を持して発表された新作が『野田版 桜の森の満開の下』。2017年の八月納涼歌舞伎にて上演されたというのが経緯となる。

『野田版 桜の森の満開の下』がシネマ歌舞伎に登場するにあたっては、世紀に跨る物語がある。

前世紀、1998年の正月、故中村勘三郎と、歌舞伎の新作ができないものかと、ワークショップをやった。その際に、歌舞伎役者らが、私の現代劇『贋作・桜の森の満開の下』をベイスに何らかの形を作り、現代劇の役者らが木村錦花作『研辰の討たれ』を何らかの形にした。その時は、どちらもまだまだ歌舞伎にできるような代物にはならなかったが、それでもその時に得た手応えから、換骨奪胎した2001年の『野田版 研辰の討たれ』が生まれた。勘三郎とはその後、いつか『桜の森の満開の下』も歌舞伎にしようと話していた。

その夢叶わぬままに勘三郎は「薨(みまか)」ることとなった。その「死」の上に乗っていた「夢」が、形になったのが去年の夏だ。勘三郎は、世を去る数年前「シネマ歌舞伎の『野田版 鼠小僧』、見た?それが思いのほかいいのよ。あれはあれで一つの形だよ」と情熱たっぷりに話していた。

このシネマ歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』には、一見、勘三郎は何一つ関わってはいない。だがその根底には、彼が歌舞伎に賭け続けた情熱がある。世紀に跨る彼の歌舞伎への熱量でここに生まれている。

                              野田秀樹

https://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/sakuranomori/

この記事では野田秀樹が稽古の様子や、『贋作・桜の森の満開の下』との違い等についても語っている。


あらすじと原作

深い深い桜の森。時は天智天皇が治める時代。ヒダの王家の王の下に、三人のヒダの匠の名人が集められる。その名は、耳男、マナコ、そしてオオアマ。ヒダの王は三人に、娘である夜長姫と早寝姫を守る仏像の彫刻を競い合うことを命じるが、実は三人はそれぞれ素性を隠し、名人の身分を偽っているのだった。そんな三人に与えられた期限は3年、夜長姫の16歳の正月まで。やがて3年の月日が経ち、三人が仏像を完成させたとき、それぞれの思惑が交錯し…。

https://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/sakuranomori/

坂口安吾の小説である「桜の森の満開の下」、「夜長姫と耳男」、さらにはエッセイである「飛騨・高山の抹殺」が参照され、戯曲は書かれているようだ。構造としては、冒頭及びラストに「桜の森の〜」、基本的な骨格は「夜長姫」、そこに振りかけられた味付けが「飛騨・高山〜」という所だろうか。

※ちなみに、「飛騨・高山の抹殺」の取材によって「夜長姫と耳男」は生まれたらしい。尚、坂口安吾デジタルミュージアムでは「飛騨・高山の抹殺」を酷評しているのだが、むしろその酷評こそが、戯曲の有する時代を貫く力、演劇的な構造を明らかにしていて興味深い。

ここには、戦争と勝者による歴史改変、さらには日本人の根幹に対する問いがある。加えて、複数の人間が実は同一人物であるという点は、一人の人間を複数の人間に分ける演劇的なアプローチであるとも考えられる。
https://ango-museum.jp/work-detail/?w_cd=0221

また、「夜長姫と耳男」のwikiが非常に詳細に書かれていて、作品の解釈についての記載も興味深いので、面白いところを少し拾っておこう。

解釈①芸術家および恋愛の主題

奥野健男は、〈好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ〉という姫の最期の言葉を「安吾の芸術観であり、恋愛観でもあろう」とし、この言葉をもって安吾は、過去に恋愛関係にあった矢田津世子へのイメージと愛を「完璧に芸術化」し得たのだとしている。

(中略)

『夜長姫と耳男』に恋愛観と芸術観という二つの流れを見る石川正人は、「姫の笑顔」に押し流されまいとして化け物の像を彫る耳男に「芸術という力を借りて、恋愛という得体の知れないものを克服しようとする男の姿」を見て取る。そして「好きな物は咒うか殺すか争うかしなければならない」という姫の最期の言葉を受け取れば、耳男は姫を殺したと同時に、恋愛という目的を達成したことになるとしている。


解釈②神話との関連性

『夜長姫と耳男』『桜の森の満開の下』『紫大納言』の3作に同じ構造を見て取る柴田まち子も、夜長姫が「異界」の存在として描かれているとする。柴田によれば、夜長姫は巫女やかぐや姫との共通性を持つことから「聖性」を、またその裏腹としての「鬼性」を備えたものとして描かれており、一方で耳男はこの世の人間として描かれる。その耳男にも実は鬼性が潜んでいるのだが、彼は〈このヒメを殺さなければ、チャチな人間世界はもたない〉と考えて姫を殺すことによって、人間界の秩序の回復を試みる。また高桑法子は、安吾にチベット語の学習歴があることを踏まえながら、姫の残虐さは日本の女神に見られるようなものではなく、その本性はチベットのダーキニー神、インドのカーリー神やチャームンダーのような「破壊の神」であるとしている。

解釈③政治的背景について

作品執筆時の政治・社会的状況を踏まえた以下のような考察もある。

(中略)

鬼頭によれば耳男による姫の刺殺は「人間の個としての主体性を確保」することを示す表現であり、その背景にあるものは、戦後の天皇信仰の復活に対する安吾の危機感であった。また青木純一は、『夜長姫と耳男』の同年に発表された随筆『もう軍備はいらない』で安吾が原子爆弾と政治・文化の関係を再論していることをふまえ、「破壊の女神」夜長姫には原子爆弾のイメージが仮託されているのではないかとしている。

加藤達彦は、人々の大量死を高楼から見守る夜長姫に「戦争」のイメージを見て取りつつ、彼女は安吾の言う「自分でも何をしでかすか分らない、自分とは何物だか、それもてんで知りやしない」(『教祖の文学』)、「ただの人間」像を「極度に純粋化」したものでもあるとし、耳男による彼女の刺殺はその安吾的な「人間」のあり方を耳男自身が内に宿すための「究極の試練」であるとした。加藤によればこの作品は、戦後、「国民統御のシステム」が推進されつつあった日本における「人間」の回復が目指された作品ということになる

そして、「桜の森の満開の下」もまたwikiが充実していて、触れているとキリがないのだが….

安吾が後に書いたエッセイ『桜の花ざかり』には、東京大空襲の死者たちを上野の山に集めて焼いたとき、折りしも桜が満開で、人けのない森を風だけが吹き抜け、「逃げだしたくなるような静寂がはりつめて」いたと記されており、それが本作執筆の2年前に目撃した「原風景」となっているという

ということで、こちらにも戦争のモチーフがあり、

王愛武は、『桜の森の満開の下』は、『堕落論』や『白痴』に引き続き、安吾が「反逆の筆」を取り、メタファーの手法を用いて、「孤独と虚無」を描写していると述べ、安吾の言う「救いがないということ自体が救いである」(『文学のふるさと』)という言葉を引きながら、そこに老子とほぼ同じ思想が見られるとし、「自然は人間の力を借りずに物事をその軌道に乗せるものである。孤独は救いのないものなら、救いのないままにすれば、自然に救われる。孤独は人間の本質なので、人間を人間らしくするものではないだろうか」と論考している。

戦争に真っ逆さまに向かっていた時代に対する反省として、大衆扇動への抵抗手段として、孤独が提示されているようにも思う。

「私も花の下へ連れて行っておくれ」
「それは、だめだ」
 男はキッパリ言いました。
「一人でなくちゃ、だめなんだ」

「桜の森の満開の下」

感想めいたもの

こうした坂口安吾の作品に散りばめられたモチーフを拾いながら再構成したのが『贋作・桜の森の満開の下』だと考えられる。

例えば、壬申の乱における大海人皇子(オオアマ)の軍事クーデターは、戦前において軍部が力を握っていく過程を描いているとも言えるし、日本に限らない戦争への下り坂を描いているとも言える。

オオアマは鬼門から鬼を招き入れることによって権力を掌握したが、それはもしかしたら政治家の常套手段だったりすることはないか。鬼を鬼と呼ぶから鬼が生まれる。鬼をつくらず、オニでもカニでもないナニにすることによって、鬼を見えなくする。…ということの恐ろしさは、この演劇が当初作られたときよりも、真実の見えづらい今の方がよりアクチュアルではないか?

オオアマ、後の天武は「わたしは鬼など欲しくない。けれども誰もが鬼を欲しがる。指を指す鬼を欲しがる」と話すが、SNSの状況だったりキャンセルカルチャー・相互監視社会といったことも思い浮かぶし、「もはやここに、内と外はない!上か下かだ」といった台詞も、現代的なテーマである。

あと、未来予測的な台詞もあってギョッとした。

王「未来は夢とキビョーで一杯だ」
アナマロ「未来に奇病をばらまかれたりして」

「贋作・桜の森の満開の下」


92年版も素晴らしかった(特に、夜長姫を演じた毬谷友子、オオアマを演じた若松武が素晴らしかった)が、この歌舞伎版はとにかく美しい。この国が戦争に傾いていく時にこそ、繰り返し何度も見られるべき作品であることは間違いない。

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