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三浦春馬ーカネ恋が教えてくれた奇跡

 三浦春馬を初めて目にしたのは、おそらくNHKの朝ドラだった。

 本仮屋ユイカが主演で、確か同級生の役だったと思う。カメラを首からぶら下げている、なんとなく可愛い男の子だった。確か「岡部くん」という名だった。

 元来、面食いの母は、この子可愛いわぁ、と言って毎日朝ドラを見ていた。ここだけの話、主演の本仮屋ユイカより、準主役の馬のジョンコより岡部くんである春馬くんを家族で愛でていた。その時に、ああ、この少年は三浦春馬くんというのだ、と思った。そしてその名前が私の中に刷り込まれた。今、振り返ればそこが三浦春馬を追う原点だったように思う。

 その後、春馬くん(敢えてそう呼ぶ)は「14才の母」という、攻めることの少ない当時の日本のドラマ界においては、ギリギリ、線をつたうようなテーマの作品に出演した。春馬くんは、朝ドラでの岡部くんのあどけなさを少し削ぎ落として、少年の臨界点を越え青年へと足を踏み入れ、それでもやっぱりその間を行き来するような、そんなくすぐったさを持って「桐野くん」を演じた。少年と青年の境界線をあやふやなグラデーションで染められた彼の一瞬が、ドラマにピタリとハマったように思った。

 「14才の母」はタイトルからして志田未来が14歳で出産する話だろうと思った。予想はその通りだった一方、家族や社会を巻き込んで、苦悩し葛藤していく姿を見るにつけ、ああ、あの可愛い岡部くんが…と思うほどで、その演技力に感心をし、成長に舌を巻いた記憶がある。これが2006年である。

 私はその年から、あるアーティストの音楽に心酔して、岡部くんを、桐野くんを、そして春馬くんを一旦横に置いて、あちこちとライブの放浪旅に出た。

 もう!今、私は自分の尻を自分で叩きたい!!何で横に置いた!目を離した!両立しなかった?!彼の一挙一動から生まれる成長を見逃したことは、今、私の中にこの上ない後悔を生んでいる。

5年後の2011年、ライブの放浪旅に少し落ち着きを見せた私は、一つの警察の物語に夢中になる。「陽はまた昇る」である。春馬くんは、今時の若者で、将来の安定を求めた警察学校の生徒、「宮田英二」を演じた。教官である佐藤浩市のあの渋い演技の世界に、春馬くんや池松壮亮は若さから得られる特有の青くささと勢いを投じて戦っていた。佐藤浩市から何かを得ようとして挑んでいるんだな、とその意気込みはとても伝わってきた。事実、回を重ねるごとに表情は変わっていき、最終回には精悍な顔つきになり、立派な青年になっていた。まるでロビン・ウィリアムズ主演の「いまを生きる」の学校青春映画を見ているような、そんな良いドラマだった。

 そしてまた、立派になった青年を横に置いて私はライブにうつつを抜かした。ああ、なぜ!!振り返ることで再び生まれるこの後悔…

 私が再び正気に戻った時には、彼は見目麗しくて、母性をくすぐるような甘さと、堪えることで生まれる強さを併せ持つ、スマートな長髪大人男子へと変貌していた。「ラストシンデレラ」の「広斗くん」だ。私が目を離した2年の間に、何があった、三浦春馬…美しすぎるだろう。

 「ラストシンデレラ」では篠原涼子演じる桜さんを騙しながらも、だんだん惹かれていく姿が描かれていた。騙したことへの後悔と、徐々に生まれる恋心の中で揺れ動く心情をうまく表現していた。ご存知かと思うが、それでも敢えて言わせて貰うが、広斗の容姿に世の女性が色めき立ち、虜になり、心を奪われた。かく言う私も、かっこいい!素敵!と言うのを通り越し、男性でこの美しさってすごくない?と、春馬くんにもはや尊敬の念を抱いた。世の女性の目と、期待と、理想を背負ってそのプレッシャーは相当だったと想像するが、あの時の春馬くんには神々しいほどの透明感と美しさがあった。それは持って生まれた美しさだけでなく、計算されたメイクアップやスタイリングからでもなく、俳優としての自信とか、それでも生まれる不安とか、向上心とか、有名人ゆえの孤独とか、そういう内面的な揺らぎから一雫、一雫滲み出るような、そんな美しさにも思えた。もちろん、仕草や表情、台詞回しからも2年の間でたくさん、自分の中で俳優として必要な要素を積み上げてきただろうことも分かった。あれだけの甘さをおそらく監督から求められても応えられ続けられるタフな春馬くんもそこにいた。宮田英二から広斗くん、この間に俳優としてのしっかりとした軸を得たのだろうな、と思った。

 2014年、心酔するミュージシャンが一人増えた私は、相変わらずの放浪の旅に出ていた。そんな中、「ラストシンデレラ」で春馬くんに一目置いた私は「僕のいた時間」を見ることになる。これは周知の通り、春馬くんがやりたいと言って持ち込んだ、「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」を抱えて生きていく青年の物語だ。命という重いテーマをALSという切り口でどう扱っていくのか、と見入っていたが、春馬くんは見事なまでに「拓人」を生きた。拓人は自分の病状が進むにつれ、不安や葛藤、嫉妬、絶望、希望、愛情という感情の波に襲われることになるのだが、徐々に動かなくなっていく体と短いスパンで目まぐるしく変わる感情とを緻密かつ丁寧な表現を持って演じ切った。というより、拓人を生き切った。そして生き切った時に、そこにいたのは俳優としての芯を得て少し熟れた青年の春馬くんだった。命、尊厳という難しいテーマに挑み、一人の人間をただ生きることに徹した春馬くんは、言わずもがなこの作品で俳優として一段ステップアップした。しかし、今だからだろうか、拓人の波乱の人生を、三浦春馬の生き方になぞらえそうになってしまう。だから今はやっぱり拓人のことは真っ直ぐ見られない。

 2年後、私の中のエンターテイメントの価値観を揺るがす舞台に出会う。「キンキーブーツ」である。その頃になると私は、ライブの放浪旅に加えて、生で芸術の息吹を感じられる舞台にハマっていた。好きなことへ手を広げるのに節操がなさすぎる、そんなふうに自分を戒めしつつも、その頃は多くの舞台を見て、演劇を見る目を養っていた時期だった。「キンキーブーツ」もその一つで、本格的なミュージカルはまだ観たことがなかったし、なんかプライベートもつまらないし、春馬くんを見に行こうかな、それくらいの気持ちでチケットを取った。

 「ローラ」としてステージに現れた春馬くんは、拓人の陰な雰囲気から想像もつかぬほどの、パワフルで、大胆で、華麗で、かっこいい、ドラグクィーンになっていた。私は彼のことを少年、青年、と呼ぶことすら安直だったと思った。なぜなら春馬くんが「ローラ」というカテゴリーを生んだと思えるほど、ローラ、その人が目の前にいたから。

 のちに知ることになるのだが、春馬くんはもともと歌がうまかった。過去の映像を見ても、同年代の俳優とは違って、きちんと歌える人だった。そんなことはつゆ知らず、にしても、きっとものすごい鍛錬をしたのだと思うのだけれど、歌のうまさやその迫力、表現方法に私は驚愕した。拓人からローラに至るプロセスには何があって、何を突き詰めて、得て、昇華したのだろうか。絶えず揺さぶられる感情の中で、そんなことを思った。

 私は東京から戻って、色々な人に春馬くんのすばらしさを語った。家族、友人、同僚、上司、とにかくいろんな人を巻き込んで自分の中に生まれたローラに対する、春馬くんに対する感情を言葉にした。特に夏フェスで推しのアーティストが出ているにも関わらず、友人にずっと「キンキーブーツ」について語り、最後には夏フェス会場の外の公園でローラのダンス(振りを少しだけ)を踊って見せたことにつけても、私の中で、ローラに対する思いは相当なものまでに膨らんでいた。

 それからというもの、私の演劇の基準は「キンキーブーツ」になった。これを越えられるか、否か、基準はそこになった。他の舞台の人からしたら至極失礼で迷惑な話だ。本来、私は芸術の価値は絶対評価で行い、相対評価で行いたくなかったはずなのに。音楽を学んで得た自分の芸術に対する概念を差し置いても、私の中では「キンキーブーツ」が絶対になった。それほど夢中だった。

 その後もYouTubeで流れる「キンキーブーツ」の映像を見ては、心奪われて、歌って踊っては、ため息をついてまた見る、という繰り返しの日々を過ごしていた。はっきり言って、心酔するミュージシャンのライブに行くより、ローラに会いたかった。だから2018年4月5日、(今気が付いた。春馬くんの誕生日である。)再演の発表があった時には感謝で一杯だった。またあのローラに会えるのか、あの素晴らしい総合芸術を見られるのかと。興奮とともに、再演される1年後に思いを馳せた。

 1年後の2019年、私は再び「ローラ」に会えた。会えた喜びに震えて、私は泣いた。ローラのダンスや歌、芝居を見て、2016年より女性的な丸みと柔らかさを感じた。良い意味で力が抜けていた。一方で、役に生きて、役と同化して生み出される迫力も増していた。やっぱりさすがだと思った。すごい人だと思った。そしてまたいつか彼に会いたいと思った。

 春馬くんはTwitterでもパンフレットでも再再演を匂わせていた。私にとってはそれがとても嬉しかったし、日々の生活の励みになっていた。「キンキーブーツ」の再再演までは、春馬くんの他の舞台を見て、こちらも色々吸収しようと思っていた。

 ーーーだけど彼は、この世からすっと身を引いた。

 意味がわからない。全く意味がわからない。これが現実なのか?いや、だって「キンキーブーツ」の再再演もほのめかしていたし、何より、新しいドラマもあるし、それも楽しみにしていたし、CDも発売されるはずだし。嘘?嘘なんじゃない?そうだよ、何かの間違いだよ。

 何もかも信じられない自分がいたけれど、頭のどこかでは分かっていて、頭の一部分はひんやり物事を見ていて、だけど感情がそれを認識しない、そんな状態が続いた。

 そんな私を現実に引き戻したのは、春馬くんのNEWシングル「Night Diver・三浦春馬」のMVだった。悲しくて見られないと思ったが、いざ見てみると、生き生きとステップを踏む春馬くんがいて、それが美しくてとても尊かった。春馬くんは作品の中でその存在感を放っていると思ったら、何かがストンと落ちた。春馬くんはそこにいるのか。作品の中で輝き続けているなら、そこにいることになるね、目の前にいるんだよね、そこで生きているんだよね、と思った。そう思ったら少しずつだが心が和らいできた。頭と感情が結びついた。そんな自分に少し安心した。

 そして昨夜「おカネの切れ目が恋のはじまり」が放送された。

 見られるかな、大丈夫かな、という人もいたけれど、私は見られる自信があった。何より、放送してくれるというTBSの英断と主演の松岡茉優の気概がありがたく、春馬くんに会えることが嬉しかった。

 ドラマを見て驚きだった。春馬くん演じる「慶太」の可愛さが4速、フルスピードで迫ってくる。春馬くん、可愛すぎるじゃないか!表情が豊かじゃないか!33歳、天真爛漫、無邪気に浪費するという設定を、例え元カノの肩に頭を乗せて上目遣いを決めたとしても、視聴者の反感を買わずにやってのけられるのは春馬くんだけしかいないと思った。よく考えてみたら、33歳天真爛漫、ってそうそういるもんじゃないのに、春馬君が演じるとなぜかリアルになる。慶太くんからイチゴ味のバームクーヘンをもらいたいと思ったし、おばちゃんみたいなエコバッグ、代わりのものを買ってあげたいと思った。何だ、このリアル可愛さは。現にTwitterを覗いても、「可愛い」祭りが開催されている。本当に演技の振り幅が半端ない。声色の変化でいろんな感情を表現してくるところもよく考えられている。さすが、三浦春馬、最新作でもやってくれるじゃないか!悲しみより楽しさが勝るなんて信じられない。笑っちゃってしょうがない。時々心がチクンってするけれど、大丈夫。だって春馬くんの笑顔でこちらも笑顔になれると知っているから、きっと私たちは大丈夫なはずだ。

 この前読んだ記事にこんなことが書いてあった。(以下引用)

 自分が生きている中で、どこかで触れ合ってるっていうことが、どれだけ奇跡的なことか、体感してもらいたい。これは相手の有名無名問わず本当に多分奇跡なんです。 (好書好日:サンキュータツオさん随筆集 「これやこの」インタビューより)


 私たちがこの時代に生まれていなかったら

 春馬くんがこの時代に生まれていなかったら

 私たちが日本に生まれていなかったら

 春馬くんが日本に生まれていなかったら

 春馬くんが俳優になっていなかったら

 私たちがエンターテイメントに無頓着だったら

 きっと触れ合うこともなかったし、感動も楽しさも興奮も得られなかったし、ウキウキすることもなかったし、結局何も得られなかった気がする。だから、やっぱり三浦春馬とこの時代に、この国で出会えたことが奇跡だと思いたいし、触れ合えたことが奇跡だと思いたいし、そのことに心から感謝したい。

 さて、来週もカネ恋を見ることにしよう。カネ恋の三浦春馬の演技を見られることは奇跡。笑顔に出会えるのも奇跡。そう思ったら数倍楽しめる。ありがたいと思う。きっと心も優しくなって、また悲しくなったとしても前を向ける。

 私たちは今、一生忘れられない奇跡と向かい合っている。そんな幸せだけを今はかみしめたい。