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今なお、湧き上がる悲しみはどこから来るのか。

犬が死んでから、もう半年以上が過ぎる。
犬が死んでから2ヶ月後、休職をした。
今、休職から半年になる。

休職した頃は「犬の死」が原因で休まざるを得ないと思っていた。
でも今は「犬の死」に対してヒステリックになるわけではない。

気がつけば、犬との対話は写真の中の犬が相手となり、
家に犬がいないことは日常となった。
(いないということ自体は、とても寂しいけれど)

では、犬の写真を見ながら
時折湧き上がる、奥底からの悲しみは、
一体なんなのだろうか。

「犬の死」に対する悲しさで泣いている
というよりは
その死を迎えるまでの自分の経験、
当時の
起こったこと、起こらなかったことに対する感情を思い出し
つまり、自分自身に対して泣いている。

私はそんな自分に冷めて呆れた目線を向ける。

なぜこんなに悲しいのか。

一言で片付くものではないけれど、
すごく単純に考えると
犬の死とそれに至る過程は、
自分の努力だけでは乗り越えようのない経験だった
ということなのかもしれないと思った。

私は自分を過小評価している割に、
時に自分を過大評価し、
犬が病気になり、どうもこれは非常事態である、ということに対して
犬のオーナーの責任として
なるべく動じず向き合いたいと
不安や狼狽、そんなものを精一杯見ないようにして
仕事のあれこれと犬のあれこれを
両立し、乗りこなそうと、
まるで乗りこなしているようなフリをした。

本当は
死ぬほど怖くて
毎日怯えて震えていて
心の底から縮こまっていた。

犬の体調がみるみる悪化しどうしたら良いのか分からず
戸惑い
まるで対処できないことも

会社にいても
その事が頭から離れなくて
いつでも泣きそうだったことも
認めたくないし腹が立つし
でも悲しくて
それを隠すために
独り
席を離れて
仕事をしていた。

後から聞くと、会社の一番近い同僚でさえも
私がどれだけ感情が乱れていて体調も崩していたかなんて
気がつかなかったと言う。
だから、その時の私はうまくフリができていたのだろう。

相当に我を張って、がんばっていた。

その時はその苦境に対処する事で
自分の成長にもつながる
とさえ思っていた。

けれど
少なくとも私にとって、その経験は
独りで乗り越えるようなことではなかったのだと
今は思う。

何かを見ないフリしている間に
犬が死んだ。

辛うじて堰き止めていた感情も
平静を装ってきた思考も、
拠り所を失い
頑張っていた自分は
向かう先が分からず
人生から
こぼれ落ちてしまった。

もっといろんな人に
助けてと
言えばよかった。

助けてと言えないのは
自分の弱さだ。

本当はいつだって誰だって人の助けが必要だし
求めたら
実は助けてくれる人はたくさんいるのかもしれない。

助けてと言える人は強い。
私は、それが苦手だった。
必要な時にヘルプを求める事ができるようになって
「成長した」と思えるのかもしれない。

湧き上がる涙の理由。

自分への後悔。
でも、後悔だけで終わらせないように、
自分に対して
言葉を、刻む。

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