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第3日 水曜日 教育者・学者 豊田芙雄


教育者・学者の2人目は、日本初の幼稚園の先生(当時保姆(読み方ほぼ)と呼ばれました)
豊田芙雄(ふゆ) さんです。
歴史の人物になりますが、月曜日のカテゴリーに入る人がそこそこいるので水曜日に扱うことにします。

この文を書くのに参考にしたのは 武智ゆりさんの 日本初の幼稚園保姆 豊田芙雄 です。


1872年当時の政府は学制を制定し、今の小学校の中に「6歳までのものに、小学校の前の端緒(物事のはじまり)を教える」ものとして「幼稚小学」を定義しましたがすぐには設置されませんでした。1875年になり今のお茶の水大学の分身である東京女子師範学校が設立され、翌年1876年に付属幼稚園が設立されました。そこに日本で最初の幼稚園の先生として2人の女性が抜擢されました。


その1人が 豊田芙雄さんです。

豊田芙雄さんは1845年10月21日に水戸で生まれました。冬と命名されます。
お父さんは武士で藩に学者として務める豊田天功と友人でした。その息子小太郎と冬さんは後結婚することになります。

お母さんは藩の著名な儒学者の次女でした。
兄弟はお兄さん、妹、弟がいたそうです。

幼少期冬さんはお母さんから詩歌を読み聞かせれ育ちました。それはおじいさんからの男女の区別ない学問の教えによるもので、お母さんは和歌をたしなみ、美しい筆跡で字を書かれたそうです。

冬さんはまたお父さんから大学・中庸・論語など中国の古典を学び、孟子・経書日本外史、太平記なども学び大変学問好きの少女に成長されたそうです。

1862年18歳で冬は前出の29歳小太郎と結婚します。小太郎さんはお父さんと同じ儒学者になり藩も重用されましたが、時は江戸から明治になる時代。藩を出て、意見の食い違う藩仲間たちの中で、反対派に暗殺されてしまいます。


この時代冬さんは数え22歳で未亡人になります。子どもがなく、夫の弟の子どもを引き取り跡取りとして育てました。


実家に帰って冬さんは子育てをしつつ、お兄さんについて小さいころから学んだ四書五経や和書の学習を学び、更に他の先生にもついて漢学を学んだそうです。

1868年頃学びに外に出るときは用心のために剣を懐に隠し持ち、明かりも持たないで言ったと伝えられています。そして自宅でも塾を開いて、生徒や漢学や国学、家庭の業務を教えるようになりました。

この頃名前を冬から芙雄に変えています。それは心半ばで落命した夫の遺志を継ぐという覚悟の顕れであったそうです。
そして私塾を開いて6年に芙雄は水戸にできた茨城県立発桜女学校(女子学校)に教師として招かれました。そこで私塾の生徒を引きつれて、ここに移り教鞭をとりました。

そして前述の1875年に今のお茶の水大学の分身である東京女子師範学校が設立に際して、読書教員として採用する話が芙雄に持ち上がりました。読書教員とは、中国の古典などの講読を投資て漢学・歴史・地理を教える教師です。そのため芙雄は辞職願を出しましたが、優れた人材を失うのを恐れた茨城県は辞職願を却下します。しかし東京女子師範学校側の働き掛けもあり、1875年11月に退職の承認を受けて芙雄さんは上京します。
 

読書教員になってからまもなく、付属幼稚園が設立され、保姆となります。
1876年11月116日に東京女子師範学校付属幼稚園は園児75程度を迎えて開園しました。
首席保姆はドイツから来日し日本人と結婚した松野クララさんで、豊田芙雄さんと共に近藤濵さんが保姆として2人の助手と共に園児の保育にあたりました。

当時の幼稚園では保姆の指示通りに制作するという一方的な教え込みが多かったようです。

芙雄さんは日本語の話せない松野クララさんの英語を通訳する関信三氏の言葉を真剣に聞き、新しい教授法を必死で学びました。
またまだ幼稚園の歌に洋楽がなかったので、幼稚園で教える歌は芙雄や同僚の近藤が作った歌詞に雅楽調のメロディーをつけて歌われたそうです。

さてこの幼稚園が軌道に乗ると全国にも同じ官立の幼稚園が作られるようになってきました。
1878年鹿児島にも女子師範学校に付属幼稚園が設立されることになり、芙雄さんは派遣されることになります。これは西南戦争で戦死したお兄さんの霊を弔うという意味もあり、芙雄さんは1879年3月に鹿児島に赴任して、鹿児島女子師範学校付属幼稚園の唯一の保姆として、園児の保育に当たり、また同時に保姆の養成にもあたりました。

やがて41歳の時、芙雄さんは2年間ヨーロッパに滞在し、欧州女子教育事情取調の任を文部省から受け、フランス語を学んだり、パリやスイスなどを旅行・見学して見聞を広めています。

帰国はしばらく東京府立第一女学校で教師となっていましたが、やがて宇都宮高等女学校の教頭として郷里に招かれてその後も、茨城県高等女学校に赴任し、国語と家事を教え、寄宿舎の舎監も務め21年教師として過ごしました。その後水戸大成女学校の校長も務めています。

また60歳で薙刀の免許状、70歳で日本赤十字篤志看護婦人会より看護学修業証書を授与されおいてもずっと自己研鑽を続けていました。
そして1941年12月1日に水戸で96歳の生涯を閉じておられます。


めぐめぐの豊田芙雄さんの素晴らしい点は以下の通りです

1小さいころから学ぶことが好きで、それを一生違うことになっても学び続けられたこと。

2ヨーロッパで実際見聞きした寄宿舎方式の女学校を帰国後東京に自分で作ったという行動の早さ。実際1年でこの学校は閉鎖するが、新しいアイディアをすぐ実行する行動力が素晴らしい。そして自分で私塾を作るというパワーも素晴らしい。


3一生様々な年代の女子の教育に関わり、健康にも気づかい長生きして多くの後進を育てたこと。そこに彼女の武士道があったのではないかと思います。


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