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第6週水曜日教育者一柳満喜子

今日は近江兄弟社で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズの妻で、近江兄弟社学園の学園長を務めた一柳満喜子さんです。


1884年3月18日兵庫県加東郡小野町(現・兵庫県小野市)の元播磨小野藩主、維新後は貴族院議員となった一柳末徳子爵の三女として誕生されます。

お母さん英子さんは小さいころに他界されましたが、満喜子さんが通った築地のミッション系の櫻井女学校(現・女子学院)幼稚園の矢嶋楫子さんや宣教師たちの影響もあり日本で最初に洗礼を受けた四人の華族婦人の一人であったそうです。

また栄子さんは矢嶋楫子さんが日本基督教婦人矯風会が太政官に「一夫一婦制」を訴えた運動に同道するなどの活動をしたそうです。

またお父さんは上京して慶應義塾に学び、そこでジェームス・カーティス・ヘボンやフルベッキらから西洋事情だけでなくキリスト教にも関心を抱いたそうです。

音楽が得意で神戸女学院音楽部を卒業されます。
単身で渡米する旅の途中でハワイ・オハウ大学長のグリフィス氏の勧めもあり、日本で最初の女子留学生・津田梅子さんが卒業し東洋女性のための奨学金制度を持っていたペンシルベニア州の名門校ブリンマー大学に学ばれます。


その後津田の友人アリス・ベーコンの教育実践活動に参加し
また留学中の1910年、ブリン・マー長老教会で洗礼を受けました。


1919年(大正8年)、次兄・広岡恵三氏(加島銀行、大同生命、大阪電気軌道社長)の自宅設計に設計者として招かれていた建築家ヴォーリズと運命的な出会いがあり、義理姉の広岡浅子さんの後押しもあって結婚されます。

それからヴォーリズの主宰する近江ミッションに加わり、結婚後は近江八幡で生涯を過ごしました。
またヴォーリズと共に海外の宣教団体との交流をしました。

戦後米国の女流作家グレース・ニース・フレッチャーが満喜子に取材して書き下ろした『Bridge of Love』は米国でも広く読まれたそうです。また昭和天皇の依頼により親王たちの家庭教師として招かれたエリザベス・ヴァイニング夫人とも交流がありました。

彼女が地元の未就学児童を対象として始めた「プレイ・グラウンド」は「清友園幼稚園」となり、今日の近江兄弟社学園へと発展しました。

米の各種教育理論を研究し、そこから独自の教育実践理論を展開、「神中心の信仰による自己統制力のある人間の育成」を目指して今も学校として続いています。

1969年(昭和44年)、ヴォーリズの死から5年後に死去。二人は共に同市北之庄町の恒春園に葬られました。夫婦の間に子供はなかったそうです。

満喜子さんについての本がでています。




めぐめぐがすごいと思う一条満喜子さんのこと


1人のアドバイスを人生で聞いて、自分の道を拓かれたこと。まずアメリカ行きそして結婚。多くの人の意見を聞いて人生を進めて行かれたのがすごいと思います。

2お父さんや早くに亡くなられたお母さんの影響を大切に人生ずっと持っていたこと。

3アメリカの読者をたくさん感動させるほどの国際恋愛をされ結婚されていること。ただの恋愛ではなくお互いの人格が素晴らしい二人の恋愛だったからこそそんなすごい力があったのだと思います。

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