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第23週 土曜日 メディアで活躍する女性 有馬稲子


23人目のメディアで活躍する女性は女優の有馬稲子さんです。

子ども時代


有馬 稲子(ありま いねこ)さんは1932年4月3日大阪府豊能郡池田町(現:池田市)に中西 盛子(なかにし みつこ)さんとしてお生まれになりました。

お父さんが共産主義者で官憲に追われる身であったため、見かねたおばあさんがが4歳の盛子さんをを釜山にいる、お父さんの実姉の中西かねの下に連れて行き、子供がいなかったかね夫婦は盛子を養女にしたそうです。

養父は家庭用品問屋で商工会議所議長などもやっており、養母(伯母)の中西かねは1916年から1926年にかけて有馬稲子(旧字体:有馬稻子)の芸名で宝塚歌劇団4期生として在団していた経歴があり、退団後は藤間流の名取りで日本舞踊を教えておられました。そして盛子も養母から踊りを習われます。

盛子さんは釜山公立高等女学校に入学するも、間もなく終戦を迎え、伯母の手配で引き揚げ船に乗り、下関に帰国されます。

当初は引き揚げ船で知り合った人物の世話になり、小倉で1か月滞在するも、大阪にいた盛子さんの実の両親が彼女の生存を知り、再会を果たされます。

しかし、実父に虐待を受けたり、弟妹たちとの関係が上手くいかなかったため、自殺を考える時期もあったそうです。

1945年秋、大阪府立夕陽丘高等女学校に編入されます。


宝塚音楽学校から映画デビューまで


1948年、仲の良い友人が「ね、タカラヅカ、受けへん。音楽学校が生徒募集してるわ、あんたやったら受かるんちゃうか」と声をかけてくれたことがきっかけとなり、受験され合格、宝塚音楽学校に入学されます。

当時は宝塚への知識はまったくなく、ただ駅でよく美しいポスターを見掛けるぐらいだったそうです。

よって養母が宝塚歌劇団にいたことは、入学後に当人から知らされたそうです。

1949年、宝塚歌劇団36期生として宝塚歌劇団に入団され、二代目有馬稲子を襲名されます。

この芸名は百人一首の大弐三位の「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」に由来するそうです。

この由来を知ってからは、古臭いと思っていた自分の名前が好きになったという。

宝塚入団時の成績は63人中9位だったそうです。

稲子さんは在団期間は短かったそうですがが、主演娘役として活躍されました。

在団中の1951年、東宝『寳塚夫人(宝塚夫人)』で映画デビューされます。元々、宝塚在団中から新劇のファンであり、映画への誘いに抵抗がなかったそうです。

同年7月、映画『せきれいの曲』で初主演されます。

宝塚歌劇団の最終出演公演の演目は花組公演『巴里の騎士/かぐや姫』だそうです。


宝塚を退団、東宝へ




1953年、自身が男役を演じた際の違和感から映画に興味が転じ、3月25日付で宝塚歌劇団を退団されます。

そしてまず東宝の専属女優となる。

1954年には岸惠子さん・久我美子さんらと共に「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立されます。



以降、岸さん・久我さんとの半世紀にわたる友情を築かれました。

自ら出演作を決めたりする活発な活動は「ゴテネコ」とも揶揄されたそうです。



1955年に松竹へ移籍されました。

同様に東宝から移籍してきた岡田茉莉子さんと共に二枚看板として大活躍する。

1960年、3月30日から5月15日まで約1か月半、ヨーロッパを旅行されます。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なヨーロッパ旅行だったそうです。

1961年公開の『もず』(渋谷実監督)について、当初は杉村春子さんと岡田茉莉子さんが母娘役での出演とされていたが、最終的には淡島千景さんと有馬さんでの製作となったそうです。

これは有馬さんが所属していた「にんじんくらぶ」が『もず』の権利を保有していたためだそうです。この件は「もず事件」としてマスコミで喧伝されたそうです。

2度の結婚と離婚

1961年11月27日、俳優の中村錦之助(萬屋錦之介)氏と結婚式を挙げられます。

披露宴の招待客は約1000人以上、用意されたウェディングケーキは高さ2メートルで当時の値段で16万円、と日本映画界を代表するトップスター同士の結婚にふさわしい、当時としては破格の豪華結婚式だったそうです。

また、2人の結婚を祝して「有馬錦」という銘柄の日本酒も造られたそうです。

さらに中村の父親から900坪の土地を京都に与えられ、そこに150坪の邸宅を構えられたそうです。

しかし、そこでの家事生活は過酷なもので、昼も夜も台所に立つ日々に疲れてしまい、これが離婚の一因になってしまったそうです。

1965年7月23日、結婚から約3年7か月後、東映大川博社長が二人の離婚を発表されます。

離婚の理由を「有馬が今後も芸の道を進むことを強く希望し、家庭の主婦の務めができなくなるため」と当時発表されたそうです。

1969年に稲子さんは実業家の河村三郎氏と再婚するも、1983年に離婚されています。

なお、中村(萬屋)氏と河村氏のいずれとの間にもお子さんはなかったそうです。

にんじんくらぶ後

1965年、負債による「文芸プロダクションにんじんくらぶ」の解散後は、宇野重吉氏に私淑して劇団民藝に所属されます。

演技を基礎から学び直したが、再婚と同時に1983年退団されました。

その後は主に舞台とテレビドラマを中心に活躍しておられます。

自著『バラと痛恨の日々』(1995年)などで、初婚前にある映画監督と不倫関係にあったことを告白されています。

2010年4月、『私の履歴書』(「日本経済新聞」)でもこの不倫と堕胎について触れ、赤裸々な連載が話題となりました。

有馬自身は映画監督の実名を公表していないが、一部のマスコミは市川崑氏であると実名報道している。

2013年7月17日、宝塚大劇場で開催された「宝塚音楽学校創立100周年記念式典 百年(ももとせ)の道〜いま新しき未来へ〜」に、八千草薫さん、天海祐希さん、檀れい(司会を担当)さん達と共に出席されています。

2014年、宝塚歌劇団創立100周年記念で創設された『宝塚歌劇の殿堂』最初の100人のひとりとして殿堂入りを果たされます。

現在


田園調布の自宅を引き払い、2007年より横浜市の中高年向けの高級分譲マンションでひとり暮らしをしておられます。

住民同士でガーデニングの会を立ち上げて、共有の庭にある「モネコ・ガーデン」(画家のクロード・モネが「ジヴェルニー」という美しい庭が由来)の世話を楽しむなど魅力的なライフワークをメディアで語ることも多いそうです。

受章・受賞歴

有馬稲子さんは以下の賞を受賞されています。


ゴールデン・アロー賞
アイルランド・コーク(Cork)国際映画祭 主演女優賞
ホワイト・ブロンズ賞(1965年)
紀伊國屋演劇賞(1980年)
文化庁芸術祭賞優秀賞(1983年)
芸術選奨文部大臣賞(1988年)
紫綬褒章(1995年)
第6回日本映画批評家大賞・ ゴールデン・グローリー賞(1997年)
勲四等宝冠章(2003年)
第23回日本映画批評家大賞・ ダイヤモンド賞(2014年)


めぐめぐがすごいと思う有馬稲子さんのこと

1子ども時代本当に苦労されていること。しかしその経験がきつと後年の素晴らしい演技に影響を与えているはずです。

2結婚式が現在の芸能人の結婚式が考えられないくらい非常に大きな結婚式だったということ。

3そして今も一人暮らしをエンジョイされ人生を楽しんでおられること。


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