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第4日 木曜日 作家・歌人・漫画家 紫式部

最初の一人目はやはり歴史の人物ですが、日本文学を代表する女性作家また歌人であり、
世界的にも知られ、今もずっと研究が続けられているという点から紫式部を取り上げます。


紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録は存在しません。


そのため紫式部の生没年については様々な状況を元に推測した複数の説が存在して、定説が無い状態です。

生まれは970年から978年の間と言われています。
また亡くなったのは1014年から31年まで様々な説があります。


また紫式部の本名についても様々な説があり、これも不明です。

女房名として知られているのは藤式部という名前で、

式部とはお父さんの官位が式部だったという説と同じ母の兄弟の官位という説があるそうです。

また紫式部というようにむらさきという色の名前がついている名前はこの時代他に例がないそうで、
このように呼ばれるのは、作品の源氏物語の作中人物紫の上から来ているのではないかと言われてもいます。

また2005年に出た論文ではももという名前が幼児期の名前ではないかという研究発表が出ているそうですが、まだ検証されていないそうです。


お父さんは藤原北家良門流の越後守・藤原為時で、母は摂津守・藤原為信女ということははっきりしているようです。

幼少期に母を亡くしたので、父に育てられたと言われています。


お父さんの家系は漢文を読みこなす高い教養を持った人物が多く、紫式部も
小さい頃から漢文を読んだなどの逸話が残っています。


長徳4年(998年)頃、親子ほども年の差がある山城守・藤原宣孝と結婚して長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を産みました。ただしこの結婚生活は長く続かず、間もなく長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別します。

そしてその後54帖にわたる大作、源氏物語を書き始めたと言われています。
また一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼(現代でいえば)家庭教師役として仕え、少なくとも寛弘8年(1012年)頃まで奉仕し続けたということも分かっています。そしてこの宮仕え中の日記『紫式部日記』も現在にまで伝わっています。

また子供時代から晩年に至るまで自らが詠んだ和歌から選び収めた家集「紫式部集」も現在まで残っています。『小倉百人一首』にも和歌が収められており、中古三十六歌仙および女房三十六歌仙の一人でもある。『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に、計51首が入集しています。

紫式部について同時期の有名だった乳房たちの人物評があるそうです。
清少納言は 

得意げに漢字を書くが間違いも多く大したことない。こんな人の行く末にいいことがあるだろうか。

ほぼ悪口です。これは様々な研究で、実際年齢などを考えてお互い面識はなく、お互い使えた主人の政治的な争いによるものという説が出ているそうです。

また同輩の和泉式部は 

素行は良くないが歌は素晴らしい

赤染衛門 は 

家柄は良くないが歌は素晴らしい

という言葉を残しているそうです。


紫式部の書いた源氏物語は

100万文字・22万文節400字詰め原稿用紙で約2,400枚に及ぶという長編恋愛小説です。

そして 500名近くの人物が登場し、70年余りの出来事が書かれています。

また800種の和歌も出てきます。

物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とよばれています。




現在20か国語以上に翻訳され世界中で読まれています。




このような大作を中世に女性が書いたということは世界に類を見ないことで、


まさに紫式部の世界に誇る素晴らしい日本女性と言うことが出来ると思います。

めぐめぐが素晴らしいと思う点は


1様々な他の女性たちの批評にも負けず大作を自分の仕事の合間に書き上げたということ。

2物語だけでなく和歌を詠んだり、日記を残したり書くことを心から愛したこと

3作品が日本の美術の歴史を始め大きな影響を残し(源氏物語の絵巻は国宝)、現在に至るまでたくさんの研究が続けられ、また後の作家や漫画家に今の源氏物語を書き続けさせたということです。

めぐめぐはコロナ期に源氏物語の与謝野晶子訳をオーディオブックで聴きましたが、60時間くらいあって本当に何日もかかりました。
でもとても良い経験になりました。


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