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終活から魂活へ:無我の境地を目指して

 「終活」という言葉が一般的になり、人生の終焉を意識する機会が増えた現代。しかし、私は「死の準備」よりも、生きている間に「魂を磨く」ことに重きを置きたい。
何かを得ようとするのではなく、すべてのものを手放し、無我の境地を目指したい。
誰かに何かをしてもらうのではなく、誰かの役に立てる存在になりたい。
目的を持たずとも、ただ健康であれば、毎日が幸せだと感じる。

 「終活」は、人生の最終章の準備である。しかし、私は人生のあらゆる段階で「魂活」を実践できると考えている。就活、婚活、育児など、人生の様々な局面において、私たちは自己を磨き、成長してきた。そして今、人生の終盤を迎えるにあたり、再び自己と向き合い、魂を磨く時が来たのではないだろうか。

 「修活」という言葉がある。これは、人生を修めるという意味で、「終活」よりも積極的な言葉だ。私は「魂活」も「修活」の一種だと考えている。それは、単に死を待つのではなく、生きている間にいかに生きるか、いかに心を豊かにするか、という問いかけである。

 長年社会で働き、経済的な安定を築き上げてきました。しかし、その過程で「本当に大切なもの」は何なのか深く考えるようになり、物質的な豊かさよりも、人の役に立つ生き方こそが、私にとっての幸せだと気づきました。

 これからは、これまで培ってきた経験と知識を活かし、経済活動から離れ、社会貢献活動に専念したいと考えています。芸術文化、音楽、環境、美容、健康関連のボランティア活動などを通じて、社会の役に立てるよう精一杯努めていきたいと思っています。
私は、死ぬほど働いて病気になったので、経済活動はせず、世の中に役立つと思われるボランティア活動をするのを生き甲斐としています。
これは単なる自己満足ではなく、長年社会で生きてきた者としての責任だと感じています。限られた人生の中で、少しでも世の中に良い影響を与え、感謝の気持ちで満たされた日々を送りたいと考えています。

 無我の境地とは、自己中心的な考えから解放され、万物のつながりを感じることである。それは、誰かのために何かをしたいという思いにつながり、結果として自分自身も幸福感を得ることができる。

 もちろん、健康でいることは、魂活を実践するための前提条件である。健康な体と心があってこそ、私たちは周りの人々と関わり、社会に貢献することができる。

 「目的」という言葉に縛られることなく、ただ「今」を生きる。それは、一見、無意味に思えるかもしれない。しかし、目的がないからこそ、私たちは様々な可能性に開かれた状態を保つことができる。

 「終活」から「魂活」へ。それは、死を恐れるのではなく、生を全うするための新たな一歩である。

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