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自分は恥ずかしい存在じゃない。

昨日、面白い本を図書館で借りた。

元々借りるつもりは無かったのだが、オンラインで他の本を予約したときに、たまたま「お気に入り」のタブの中に入っていたので、ついでに予約をした。

どういうきっかけでこの本を知ったのか覚えていないのだが、病気と、どのように自分自身や世界について認識しているかの関係性を知りたくて、保存していたんだと思う。

そういう出会いは、いつもタイミング。

というのも、元々借りようと思っていた本も、病気とトラウマとの関係についての本だったからだ。

友人に勧められて、このガボール・マテの映画『The Wisdom of Trauma』を観た。彼が医者として依存症患者と向き合う中で、幼少期のトラウマが大きな鍵を握っているということに気付く、というものだ。

(日本語字幕あり。オレンジの「Sign up for release update」に進むと、次回の上映情報のお知らせを受け取ることができる)

内容は、様々なケースの紹介が主で、直接的に視聴者に問いかけるような内容ではなかったが、不意にもハッとした気付きがあり、涙がこぼれた。

自分は恥ずかしい存在じゃない

私が5歳のとき、引っ越しで新しい街の幼稚園に入園したときのこと。年長さんクラスだったが、その頃にはもうクラスの中で女の子のグループができていた。

そしてそのグループから仲間外れにされて、泣いてばかりだった。クラスの担任の先生は岡本真夜の、『TOMMOROW』「涙の数だけ強くなれるよ〜」という歌を、泣きじゃくる私に歌ってくれていた。

出来れば思い出したくない、心の奥に隠しておきたい記憶。

誰にでも、こういった出来事は少なからずあると思う。

ただ、重要なのは、自分がそこにどんな意味づけをするか、ということに気付いた。

私にとっては、この出来事は「仲間はずれにされるということは、人生において一番恥ずかしいこと」。この話をすることで、なおさら私は孤独になるし、また仲間外れされる、という思い込み。

私には人と上手くやっていく能力がないから、こういった出来事が起きる、という自己非難。

仲間外れが終わっても、その女の子たちじゃなくて、自分が自分自身をいじめ続けていたということ

それが分かったとき、いいようのない申し訳なさと、解き放たれる感じがした。

もう、自分を恥ずかしい存在だと思わなくてもいいんだと気付いた。

身体からのメッセージ

先程の、『自分を愛して〜』の本に話すを戻す。その本の中で私が長年悩まされている、「月経のトラブル」という項目を参照した。(本は、辞書のように、様々な病気の感情的なレベル・精神的なレベルで解説をしている)

「特に思春期以降、女性としての自分のモデルになってきた母親を受け入れていません。でも、それは、その人が女性的ではない、ということではありません。そうではなくて、その人が、女性としての役割をできれば避けたいと思っている、ということです」

このフレーズがどっしり来た。確かに、自分が女性であるということを、受け入れ切れてなかったと、ようやく気付いた。

「女性であることを受け入れる」ということは、私にとっていくつかの意味がある。

・女性になるということは、家事を受け持たなければならない。そして、仕事と両立するのが望ましいこと。病気で、なかなか家事ができない母を受け入れられなかった。同居していた祖母の影響もあり、「女は家事をするもの」という思い込みがあり、その役割を果たせない母を見下していたのかもしれない。

・女性であることを認めるということは、自分が弱い存在だと認めることとイコール。この世界は危険なところで、自分の弱さを見せてはいけない。男性のように強くなければならない。

こういった「女性になることへの抵抗」を感じつつも、一方で「女性であること」を受け入れ、もっとおしゃれをしたい、守られたい、甘えたい…そんな気持ちが拮抗していた。

生理のトラブルは、こういった自分の中で背反する気持ちが対立し合った結果なのでは、という気がする。

そして、「生理」という、社会でのタブーにされてきたことを、オープンに話すことへの抵抗感も。

月経のトラブルが、家族に伝えられてきた「俗説」に基づいている場合もあります。たとえば、月経は恥ずべきもの、汚いもの、罪、病気であると、あなたは思い込まされていませんか?

これも、心当たりがある。最初に生理になったときに、どうしたら良いか、分からなかった。ただただ汚いもの、恥ずかしいものとして、隠すことしかできなかった。そして、それを家族に受け止めてもらえなかった悲しみ。

生理痛の原因はきっと人それぞれだと思うし、ここに結論がある訳ではないけど、私の中で何かしらのメッセージを受け止められたことを一番大事にしたい。

「自分が女性であることを、もう恥に思わなくてもいい。生理でぐったりして、家事ができない自分を受け入れること、そして助けを求めてもいいということを、認めていいんだよ」という身体からのサイン。

幼少期の出来事は、たとえ些細なことでも、そこから私たちは世界や自分への認識を作っていく。

少しずつでも、その思い込みが溜まっていく中で、身体も徐々に影響を受けるのでは、という実感がある。

大人になった今、できることは、その思い込みを少しずつ解いてあげること。その思い込みでがんじがらめになった自分を、改めて労ってあげることなのかもしれない。


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