見出し画像

なぜ日本の仏教寺院は世襲するのか〜その歴史的背景と「しゃーない」理由〜

X(旧Twitter)で仏教関連の話題になると、決まって日本仏教と僧侶の在り方に対する議論が繰り広げられる。教義そのものの話は盛り上がりにくいからしょうがないが、結局は「僧侶自身」「仏教教団自身」の批判に帰着する。それはなぜか。
答えは単純。そこが日本仏教界にとって最も突かれたくないウィークポイントだからだ。僧侶が妻帯しているのは教団が戒律を重視していないからだと言われたら、おっしゃる通りなのである。そんなこと、教団も、教団を運営する僧侶自身もわかっているだろう。だって彼ら自身の多くが、親から跡を継いだ世襲僧侶だからである。
けれども僕は、現代日本における僧侶の世襲は、致し方ないと思っている。妻帯が正しいと思わないし、世襲が健全とも思わないが、しゃーないのである。それを、歴史的背景と、現代の日本仏教界の現状、二つの観点から述べていこう。

しゃーない①歴史的に日本の寺院は一族経営がなされてきた

日本仏教は、言わずもがな聖徳太子の頃に朝廷に受け入れられた。
天智天皇と共に大化の改新を推し進めた藤原鎌足が病に罹った時、夫人の鏡王女がその平癒を祈って建立した寺院が山階寺・・・後の興福寺である。
この寺院は遷都のたびに場所を移され、その度に名前も変わったが、最終的には平城京に落ち着いた。藤原氏の始祖ゆかりの寺院ということもありその権威は絶大で、平安時代になると春日社の実権も得た。興福寺が得た寺社の所領も当然絶大で、実質的に大和国を支配した。
当時、寺院経営の基盤は宗教行為などではない。ほぼ全てが荘園(領地)経営からの租税収入である。大和国を支配した興福寺の収入はこれまたやはり絶大であった。
さて、その興福寺の経営者は誰か。興福寺は、東大寺などと同じく別当と呼ばれる長官が寺務を統括した。その別当は、興福寺の有力塔頭寺院である一乗院と大乗院の院家(住職)が交代で就くことが多かった。両寺院の院家は、その多くが藤原氏、とりわけ摂関家の出身であった。
つまり、興福寺を支配・・・実質的には大和国を長らく支配したのは藤原摂関家であった。無論、その理由は、莫大な収入をもたらす荘園を他家に乗っ取られないためである。直接の世襲とは言えないが、日本で最も歴史ある寺院が、その財産の保持のために一族で経営されていたことは、日本仏教の特殊性を語る上で重要である。


しゃーない②藤原家に財産を乗っ取られないために院政が生まれた(とも言える)

さて、その藤原家だが、ご存じ藤原道長の頃に最盛期を迎える。その基盤は、娘を天皇に嫁がせて外戚となり、天皇をコントロール下において朝廷を実効支配したことだった。
摂関政治で藤原氏がなぜ絶大な権力を保持できたか。それは、藤原氏の子女が天皇の母になったことにある。子供は母に逆らえない。母は父に逆らえない。実質的に、天皇の所領や権力までも、祖父である藤原道長の思いのままとなったのだ。その振る舞いは専横を極め、やがて天皇自身も藤原家を嫌悪するようになってくる。
道長の死後、子の頼道、教通らが関白の地位についたが、彼らは父・道長のように娘を天皇の妃にして外祖父になることはできなかった。思い通りに子が授からなかったのだ。そうしてついに、藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位する。後三条天皇はアンチ藤原氏であったので、ここから天皇は藤原氏に権力を渡さないためにあらゆる手段を講じてゆく。その一つが院政である。
院政とは、天皇が譲位して上皇(出家をして法皇)となり、寺院に住みながらにして政務を行うことだ。元は後三条天皇の体調不良により若い天皇に譲位したことから始まったとされるが、結果的にこれは摂関政治の終焉をもたらすこととなる。たとえ藤原家が天皇の妻として娘を嫁がせたとしても、実権は上皇にあるわけで、外戚の藤原氏が天皇を思い通りにすることができなくなったからだ。
さて、この院政の政治的基盤は、もちろん天皇家が代々相続する荘園(所領)である。しかし、その所領の持ち主はあくまで天皇で、譲位をした途端、上皇はその権利を失う。
一旦、摂関政治を思い出してもらいたい。藤原家から天皇に子女が送り込まれる。その天皇が崩御し、さらにその息子に皇位が移った際、その莫大な権力と財力は、天皇の母・・・藤原氏のコントロール下に置かれる。即位した天皇が幼ければなおさらである。
院政期、上皇は藤原氏の支配から、天皇家の財産を守らなければならなかった。そこで編み出した奇策が、女院領である。
以下の図を見てもらおう。

女院領設置の背景となる系図の例

女院領とは、上皇が独自に所有する院領の一つ。天皇家が持つ領地を上皇が保持し藤原家に干渉されないために、祈願寺などを建立してその寺領として荘園を付属させたものである。そして、その寺院は、上皇の娘である内親王に相続させた。名義上とはいえ、寺院を継承するには内親王が出家する必要がある。出家した際に与えられた称号が女院である。
※少しややこしいのだが、天皇の妃にも位がある。皇后が最も高いが、院政期の藤原氏の子女は皇后ではなく中宮とされた。
院政期においては、天皇の姉である内親王が准母(天皇の母に準ずる立場)となり、称号として皇后や女院号が与えられた。つまり、藤原家の子女である天皇の妃より立場が上となる。
女院となった上皇の娘は、父の所領を守るためだけに生涯独身を貫いた。現在では考えられないが、摂関家も含めて、当時の女性の扱いったら・・・
それはさておき、上皇はこの女院に莫大な所領を相続させ、そこから得られる収入をその政治基盤とした。女院は、院政において所領を守るために創建され、代々天皇家の一族によって継承されていった。

長ったらしくなったが、興福寺が藤原氏の財産を守るために一族で継承されたように、この女院領と呼ばれる寺院の経営もまた、藤原氏から財産を守るために天皇家が独占して受け継いでいったのである。

しゃーない③空海すら親族に跡を継がせた(結果的には)


時代は前後するが、平安時代初期(摂関政治や院政が始まるずっと前)に活躍した真言宗の開祖・空海であるが、日本の歴史上屈指の天才僧侶と言われる。京の都で真言宗を開いたが、弟子の育成に不向きであるとして山深い高野山に金剛峯寺を開き、自身もそこで生涯を閉じた。これまで、所領の相続のために一族で寺院を継承した話をしてきたが、空海はそんなことをしなさそうな高潔なイメージがある。
しかし、その空海も、実は弟子に多く親族を選んでいる。
空海の十大弟子(後世、釈迦にちなんでそう呼ばれただけだとも思うが)のうち、実に4人が空海の親族である。
そのうち、空海は早世した甥の智泉に高野山を継がせようとしていたと言われている。
さらに、空海の実弟である真雅は、空海没年に空海が創建した東大寺真言院を継いでいる。没後ではあるが、空海も就任した東大寺の別当(実質的な仏教界のトップ)に就いたり、東寺の長者ともなっている。
空海の甥である真然は、空海没後に高野山の経営を任されている。
空海が直接選んだとは言えないが、実際に真言宗の跡を継いだのはやはり親族だった。
空海が親族を多く高弟としてそばに置いた理由は明確な資料がないからわからないが、この場合、所領を守るとか俗っぽい理由ではなく単に天才の親族はやはり天才だったと言えるのではないか。政治の世界でも商売の世界でも、世襲や親族による継承というのは、その財産の独占という理由の他に、リスクの回避がある。血縁であれば裏切る心配が少ないと錯覚する(実際にそんなことは全くない)し、なんだかんだ親族というのは考え方も能力も似るもので、一定の安心感があるのだ。そんなこと書いている僕も親の家業を継いでいる。空海という圧倒的な天才の前では霞んでしまうが、おそらく親族も超有能であった可能性は非常に高い。こうした理由からも、寺院が親族に継承されていった場合もあるのだろう。


しゃーない④明治の廃仏毀釈で日本仏教は一旦終焉した


さて、時代は一気に近世。徳川幕府は、キリシタンを取り締まるために寺請制を施行。これは実質的な戸籍管理で、全ての国民をいずれかの寺院の檀家として所属させることで、寺院に戸籍管理を任せるのと同時に、キリシタンでないことを証明させた。いわゆる檀家制度の始まりである。
こうして寺院は役所じみた役割を担うこととなり、僧侶も半役人のようになった。住職になると、一定の禄(給料)が支給され、それが寺院経営の基盤となった。古代から中世、近世と、形が変われど「出家すればとりあえずは食っていける」という状況は維持されており、それゆえ出家者も多かった。よっぽどの荒寺でない限り、放っておいても、寺院を継いでくれる弟子はポンポンやってきたのである。

しかし、そこに明治維新がやってきた。新政府は、皇室の権威を高めるために神仏判然令を出し、神道>仏教、神社>寺院という立場を明確化させた。また、長年の仏教勢力の専横が、政府の後押しで権威を取り戻した神道勢力と民衆の積年の恨みを買い、過激な廃仏毀釈をもたらした。さらに、新たな官庁制度と戸籍管理により寺請制度も必要なくなり、いよいよ寺院は完全に「民営化」された。興福寺でも藤原摂家出身の僧侶が還俗した。これは、比叡山や高野山でも同じで、あまりに還俗者が多いために、一人の僧侶がいくつもの寺を兼務するという事態になった場所もあった。
そして「僧侶になれば食ってはいける」という状況も一変したので、弟子のなり手も急減。寺院はたちまち経営難・担い手不足に直面することとなる。
政府はさらに仏教の権威失墜を狙ってか、もしくは担い手不足を解消する救済だったのか、どちらかはわからないが「僧侶の妻帯を許可」したのだ。つまり、担い手がいないならユーが子供こさえて跡を継がせれば良いじゃないという話である。これは国が正式に戒律を否定したとも言える。真言宗の釈雲照などが戒律復興を叫んで盛んに運動したが、それも叶わず、ついに多くの僧侶が妻帯した。そしてその子供たちを弟子として、全ての宗派で世襲が開始された。いかに堕落していたとはいえ日本仏教が公にはぎりぎり保っていた最後の戒律の砦が打ち壊されたのである。個人的には、ここで一旦日本仏教は終焉したと思っている。現代の仏教の内実は悪い意味で生まれ変わったものなのだ。
さて、そんな時代からもう150年ほどが経っている。今や、僧侶のほとんどが、親も僧侶である。その親も、さらにその親も僧侶で、世襲で5世、6世の僧侶もざらにいる。彼らにとってそれが常識であり、普通なのだ。彼らに「世襲僧侶はダメだ!」と言ってもしゃーないのである。寺院の世襲はもう150年近く続いている。良いか悪いかはおいておいて、もはや文化の域に達している。いかにそれが戒律に反しているとて、本来の仏教とはかけ離れているとて、文化の域に達したものは、それこそ明治維新くらいのインパクトがなければ変えられない。


結論。しゃーない。


以上をまとめよう。

①日本の仏教寺院はその初めから割と一族で継承されてきた
②しかもその多くが所領を維持するためなどの経済的理由である
③明治維新によって担い手が激減。僧侶が結婚して子供を継がせるようになった

僧侶の世襲というのは、単に僧侶が煩悩に負けたからではない。ある意味で、明治維新の・・・歴史の犠牲者であるのだ。
もちろん、僧侶が妻帯をしないほうがいいし、世襲もおかしな話ではある。
けれど、その違和感を現代の僧侶にぶつけるのは酷なのだ。
もし僧侶の世襲を否定したいのなら、まず制度から変えなければならない。寺院数を超える「僧侶になりたい若者」を増やす必要がある。風土、文化、官民の後押しが必要である。
しかし、政教分離によってそれも叶わないだろう。現行制度では、国は特定の宗教を支援することは不可能だ。
年々僧侶のなり手は減っているだろうし、寺院も地方から順番に滅んでいるそうだ。
そうなれば、なおいっそ住職は自分の息子に寺を継がせなければならない。なぜなら、寺は住職の個人財産ではなく、檀家や信者のためにあるものという原則があるからだ。

もちろん、現代の戒律なんて知ったこっちゃねーぜ系僧侶を全面的に庇うわけではないが、彼らには彼らの事情があり、仏教寺院を取り巻く歴史的背景もあり、それを知らずに遠い過去、遠いどこかの場所にあったであろう「本来の仏教」という幻想だけを論拠に、今を生きる僧侶を否定するのも可哀想だな、という話であった。

おわり


いいなと思ったら応援しよう!