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愛の話はしないで 3

 5


 彼女に衆議院選に出ないかと勧めたのは、数年前に知り合った、ある野党の地方支部の者だった。
 「昔、――先生ともお知り合いだったそうですね。彼女は若い頃から才能があったと、おっしゃっていましたよ」
 彼は、かつて彼女が慕った作家の名前を口にした。
 「ご存じなんですか」
 「我々の後援会にお名前を連ねていらっしゃいます」
 「なら、先生がご出馬すればいいのに」
 「もうお歳ですからね。それに我々も先生も、あなたに訴えてほしいのです」
 「何を?」
 「社会に苦しめられた女性の声を」
 彼女は何も答えずに帰宅した。
 話を聞いた彼女の編集者は、呆れたように首を振った。「あなたが社会のことなんか書いてないって、まともに読めばわかるでしょうに」
 「そうも読めたのかもしれませんね」
 「だめですよ、ほだされては。どうせ人がいなくて困ってるんですよ、落ち目の党なんだから」
 それでも彼女は、何度かその野党の男と会合を持った。やがて、彼女の言葉には、はしばしに社会的なものが混ざるようになった。彼女を見出した編集者はそれを知るたび、苦い顔をした。しかし彼女だけの編集者ではなかったし、彼女の側にも他の編集者がついていた。その中には、彼女の政治的な言動を喜ぶ人もいた。
 「あなたのような人が世の中に目を向けるとは、とても心強い。適切な支援を受けられず孤独にあえいでいる女性のために、ともに歩いていきましょう」ある者は
言った。
 彼女の次の小説は、現代を舞台にした、介護職の薄給に悩まされる女性の物語になった。彼女はかつての経験を、苦しい方に誇張した。主人公には救いがもたらされず、選挙カーの音を遠くに聞きながら精神崩壊する結末が与えられた。作品は賛否を呼んだ。彼女には、そして私にも、拭い去れない色がついた。
 彼女はそれから、非常な速さで文章を書くようになった。かつての美しい姿勢は崩れ、老眼が入り始めた眼を焦るようにパソコンの画面に近づけて、貪るようにキーボードを打った。文章はさらに政治的な色合いを帯びていった。
 「この社会には愛が足りない。この社会の愛は個人的なものばかりで、それは政治も同様だ。今の政治は個人しか見ていない。今の政府の取っている主義はまちがっている――」
 彼女の友人の八割は再び離れていった。残った人々は、彼女を更に煽り立て、そしてそういう知人ばかりが増えた。女性の孤絶について語りながら、彼女の文章から、あの冷たい夜の海の水流のような孤独はもう消え失せていた。そこには空虚で熱っぽい使命感だけがあった。その文章を買う人たちによって、私はまた姿を変えていった。ガスのような私のなかに、うつろな熱い泡がたくさん注入されては、好き勝手に膨らんだ。身体の中の蠢めく無数の泡はこすれ合い、声を鳴り響かせた。「この社会の愛は、個人的なものばかりだ」
 次の選挙に、彼女はその党から出馬した。

 選挙には非常な資金が必要になった。知名度だけをあてにされた候補だったから、党から大した支援も受けられなかった。彼女は自分で事務所を借り、スタッフを雇った。私はとたんに、大きく削られた。彼女は自分で数えたことがないような大金を、平気な顔で支払った。
 これほど私が動いていても、私が実体を取り戻すことはなかった。いつか神の愛にのめり込んだ時のように、彼女は私のことなど忘れていたようだった。彼女は払い、払い、そして払った。
 それでも、彼女は落選した。
 そのあとも、彼女はその姿勢をやめなかった。彼女は人と会い、政治と愛について語った。かじりつくようにして書く文章の質は、傍目にもあきらかなほど落ちていた。かといって、極端な思想を持つ人々の気に入るほど扇情的でもなかった。私の中の泡は、一つ一つ弾けるようにして消えていった。
 「愛が足りないの」それはもう、彼女の口癖になっていた。「この社会には、愛が足りないの」

 その頃から、彼女は頻繁に私の夢を見るようになった。
 場所はいつも、例のカフェのような場所だった。私はまだ、元のような身体を取り戻していなかった。窓の外には再び光があった。夕闇に似た薄明かりの中で、彼女は席に着き、頬杖をついていた。コーヒーの匂いが漂っていた。それを私は、離れたところから見ていた。
 「あなたがここにいるの、わかるの」
 彼女は何もない空間に向かって言った。低く澄んだ声だった。
 「――わたしに、何か言いたいことでもあるの?」
 初めの夢は、それだけだった。その後しばらくの夢は、もっと何もなかった。私はほとんど夢の外と同じように、離れたところから、彼女を見守るだけだった。
 ある夜、突然私は、彼女の向かいに座っているのに気づいた。テーブルに置かれた痩せた手が目に入った。クッション付きの籐椅子に座った尻と背の感覚が、私に全身があることを伝えていた。彼女は頬杖をついたまま、上目遣いに私を見つめていた。
 「久しぶりだね」私は曖昧な口調で言った。彼女は華奢な少女ではなかった。頬と眼差しに長い年月の跡を刻み込んだ、初老の女だった。
 「そうね」彼女はゆっくりと、気怠げに応えた。「最後にこうして話したのは――」
 それから、ふいに、夕陽に溶けるような、とろけるような微笑を浮かべた。「大昔だった」
 私の右手がわずかに疼いた。「そうだね、大昔だった」
 「きっと、私が使ってしまって、もうあまり稼がなくなったからね」
 「何が?」
 「あなたがそういうふうに、現れたの。何か言いたいことがあるんでしょう?」
 「なぜ?」
 「だってわざわざここに来たんだもの」
 「いや」私は少し目を伏せた。また自分の手が目に入った。「そうだな、今の私は何に見える?」
 彼女は少し面食らった顔をしたが、答えてくれた。「そういえば、今は、ちゃんとあなたに見える」
 「私に?」
 「初めに会ったころの、あなたに。あれがあなたの、本来の姿じゃないの?」
 「いや、あれは――まあいい」
 「そういえば、少しアルバイト先の店長に似てるなって思ったのよ」
 彼女は知ってか知らずか、くすくすと笑った。

 私が身体を取り戻したのは、彼女の言う通り、私から泡のような印税が消えていったからかもしれなかった。私は崩れるように減っていった。原稿の依頼は少なくなり、六十歳を過ぎた彼女が新しい職に就くのも、また難しいことだった。
 たまの夜の夢の中で、私と彼女は漫然と会話をした。削れていく私のことと、彼女の愛の話に触れない、ゆるやかな会話を。彼女の書いた物語の感想を語ると、彼女は眼を鈍く輝かせて聞いていた。
 「まさか、こんな近くにいい読者がいるなんて思わなかった」
 「あの作品が売れて私になったのだから、私も知らないわけにはゆかなかった」
 「わたしが書くあいだ、ずっと読んでたの?」
 「読んでいたよ」
 「財産って、みんなそういうものなの?みんな、持ち主のことを何から何まで知ってるの?」
 「――どうかな。あまり、他のやつの財産と話したことはないよ」
 「そうなの。なんだかもったいないことね。だって、こうして話さない限り、あなたたちがそばにいてくれることすら知らずに過ぎていくわけでしょう。――そうね、あなたって、わたしにとって奇跡だったのかしら」
 「それはきっと、大袈裟に過ぎる」
 私は目を逸らした。
 彼女の小さな笑い声と、コーヒーのカップを取り上げる音が聞こえた。私は窓の外を見つめ続けた。
 五十年近い年月は、私にはほとんど積み重なっていないようだった。私は老成も、成熟もしていなかった。所詮概念に過ぎなかった。更新され、上書きされ、形を変えてゆくもの。それなのに、五十年前から変わらない何かが、今になって、物理的にはありもしない私の身体の奥底で、海流のような渦を巻いているのを感じた。

 ところが、彼女との夢の中の会合の日々は、急に途絶えてしまった。彼女が三十も年下の男に、恋をしたのだ。
 その頃の彼女の知人は、彼女に義理立てしていたわずかな業界人と、政治関係者だけだった。彼はその伝手をたどって彼女に取材したいと訪れた、政治関係のライターを名乗る青年だった。人当たりがよく、恬淡として快活な様子は、遠い日の偽・田丸君を思わせた。
 初め彼が近くの喫茶店まで訪ねてきたとき、彼女はきわめて穏やかに応対した。社会における愛の不足の話を、政治への意見を交えて語った。彼は興味深げに頷きながら聞いていた。それから、彼女の小説の話をした。
 「正直なことを言うと、あなたの昔の作品はもっと好きなんです。学生時代に読みましたが、あの沁みるような孤独は若い男にも刺さった。それだけじゃない、歴史というものを、個人の情動に折り合わせていくあの手法。あれを読んだときから、ぼくはあなたと話してみたくてたまらなかったんです」
 彼女の眼に、意外そうな光が宿った。それから彼女は、試すように青年にいくつかの質問をした。彼はそれに楽しそうに答えた。彼女も楽しそうに、その答えに答えた。話は社会と愛の問題を軸にしながらも、その周りを軽やかに弾み続けた。
 次に来た時、彼は彼女の文章についてかつて書き留めた感想を持ってきた。それは彼女の完成された評論の出来にはるかに及ばなかったが、彼女はそれを嬉しそうに読んだ。彼女は自分の本を、小説も蔵書も含めて彼に貸した。
 「あなた、昔知っていた人に似ている」
 「そうですか」青年は気後れしたような表情のあとに、あわてて明るい笑みを浮かべた。「どんな方だったんですか」
 「わたし。――先生の小説にあこがれてた頃の、わたし」
 彼女はくすくす笑った。青年も今度は、遅れずに笑った。
 青年が通ってくるたびに、彼女は眼を輝かすようになった。彼の記事というものが完成し、ささやかな媒体に掲載された後も、彼女は彼と話し続けたいと望んだ。彼に連絡を取り、ぜひ遊びに来るようにと何度も誘った。彼女の知っている、別の政治関係者を呼んで同席させたりもした。そう言った会に使われた、気取らないがけっして庶民的ではないレストランの食事代は、彼女が持った。
 青年は何かに気付いたのか、やがて彼の方からも頻繁に連絡を取るようになった。彼が立ち上げた記事配信ウェブ・サービスについて、彼は彼女に寄稿を依頼するとともに、それ以外の援助もそれとなく求めた。彼女は嬉々として、決して少なくはない金額を何度も振り込んだ。

 彼女に稼ぎはほとんどなかった。多少の年金が入る年にはなっていたが、生命保険はとうの昔に解約していたし、固定資産も持ってはいなかった。住んでいたマンションが古くなり、多少家賃が下がってきているのがせめてもの助けだった。それでも暮らしは厳しかった。身体のどこが痛もうが、彼女は病院に行かなかった。目が覚めるのは早くなっていたのに、ベッドから出てくる時間は日に日に遅くなっていった。彼女は毎朝、全身をさすりながら、低い息をついていた。
 私は痛めつけられながら、彼女の側にいた。彼女が私を切り詰めていた日々を思い出した。彼女が働きだした頃の若き時代。小指を切り取ってでも、彼女の食卓を豊かにしたいと願ったこと。願いはそう変わらなくとも、あの日々は遠く、私と彼女はもう二人きりではなかった。

 青年と彼女は、毎週のように会っていた。しかし青年は、人目を避ける場所を望むようになっていた。彼らは郊外のレストランやバーで逢瀬を重ねた。彼女は未だ慣れない酒を揺らしながら、彼の人生について尋ね、自分の失われた恋について語った。それを彼は酒で流し込むようにして、どこかぼんやりと聞いていた。性的な関係に彼らが移る気配はなかった。それでも彼女の頬には、今までになかった色が差していた。彼女の頬は、遠からぬ終焉の予感を湛えて、一層なまめかしい薔薇色に輝いていた。
 ウェブ・サービスが軌道に乗ったころ、青年は途端に連絡先を変えてしまった。きっとあなたに飽きたのではないだろうと、知人の一人はおざなりに彼女を慰めた。ただ、彼はあくまでライターだ。ひとりの取材対象といつまでも親しくしているわけにはいかない。それは彼の記事の信頼性を損ねてしまう。
 「それなら、もっと早くそう言ってくれればよかったのに」
 彼女はわざと、傷ついたような口調で言ってみせた。彼女は誰にも、彼に出資したことを教えていなかった。

 「捨てられた」
 彼女は廃品回収のチラシの裏に、鉛筆でそう書き付けた。なにもない昼だった。
 「わたしは 彼に 捨てられた」
 できあがったその文章を見て、彼女は死神のような、不思議な笑い方をした。それから久方ぶりに、古いパソコンを取り出した。

 その日の夜、私はまた彼女の夢に現れた。
 「あなたが先に死んでいたらどうしようかと思った」彼女はなまめかしく微笑んだ。見たことのない表情に、私はしばし釘付けになった。そんなことがあるはずないだろう、と言いかけて、私はふとそれを言い換えた。
 「もし死んでいたら、どうする」
 「そしたら、わたしも死んでしまう」
 「……」
 「だって、そうでしょ」
 彼女は年老いて小さく皺の寄った手で、変わらない白いマグカップを包んでいた。
 「ずっと言えなかったけれど。――あの時、わたしを助けてくれて、ありがとう」
 「あの時って、あの時か」
 「誰が救急に電話したか、結局突き止められなかったの。どうやったのかなんてわからないけど、ほんとうにあなただったことは、目が覚めてすぐにわかった」
 「そうか」
 「本当はもっと早く、言うべきだったんだけど」
 「礼を言われるほどの筋合いはない。私は、きみのものだから」
 彼女は続きを待ったのか、何も答えなかった。夕陽に似た光が、暖かく室内を満たしていた。
 「わたし、捨てられたみたい」ようやく、彼女はどこか愉快そうに、つぶやいた。
 「あのライターに?」
 「そう。思えば、そういうことがあるたび、あなたはここに来てくれた」
 「そうだったかもしれない」
 「わたしを叱りに来てるんだと思ってた」
 「私も、自分の意志で来ていたわけじゃないんだ。だが――」
 静かな予感があった。もう二度と、言う機会はないと。
 「きみが、愛とやらに裏切られるたび、私はここに来ていたんだ」
 彼女は何も答えなかった。目の前の彼女は、いつの間にか大人しい恰好の華奢な少女になっていた。そう見えていただけかもしれない。五十年の歳月は、光の中にぼやけて曖昧だった。
 「きみは私を信じればいい。ずっとそう言ってきた」
 「だけど、あなたは、前に」
 「大丈夫だ。きっともう、誰にも取り憑かれはしない。私はきみだけのものだ」
 「そう、ですか」
 「遅くはないと思う。今からでもいい。愛の話は、もうおしまいにすればいい」
 少女は私をまっすぐに見つめた。その瞳だけは、年月を映して深く、そして、あまりにもうつろで哀しかった。私たちは、しばらく見つめ合った。仮初めの男と少女の姿。彼女は静かにささやいた。
 「やっぱり、だめです。確かに私には、どうしてもわからない。人生の、一番初めに、なくしてしまいました。でも影を追ってるなんて、そんなものじゃないんです。毎日そればかり探してる。探すほどに遠ざかる。だけど、どうしても、どうしても、見つけなきゃならないの」
 「――どうして?」
 「わかりません。どうしても」
 「なら、――それなら、きみは私を愛すればいい」
 その言葉を口に出すまで忘れていた、身体の中の水流は、途端に一斉に渦を巻き、あの鼓動のような律動を伴奏に、音を立てて狂いだした。身体の外の空間は、限りなく静かだった。彼女は私をまっすぐに見ていた。
 「私は確かに、きみだけのものだ」私は重ねた。
 彼女の眼に、どうしていいかわからないという表情が浮かんだ。その表面は柔らかく潤み、光を跳ね返してきらめいていた。
 「あなたも、――あなたは」ようやくそう言って、彼女は目を伏せた。私も目を逸らした。光のほか、何もない窓の外へ。奔流はまだ鳴っている。
 「ほんとうに、わたしのものだったんですね」彼女は絞り出すように、つぶやいた。
 「それは、どういう」
 「なにからなにまで、わたしのもの。思いも、望みも」かすれた声は、どこまでも苦しげだった。「だけど、――それでも、そう、わたしは書かなきゃいけない。どうしても、書きたいんです。自分のために。お願いです、もう少しだけ、見守っていてくれませんか」
 コーヒーの匂いと私の音が混じり合い、静寂を満たした。私は溜息をついた。荒れ狂う音は止まないのに、身体の力が抜け、私は頭を机についた腕の中に抱え込んだ。


 6


 彼女は次の日から、古いパソコンに向かって、新しい物語を書き始めた。
 落ちぶれた、孤独な老女の物語だった。彼女が愛に裏切られ続ける過去を回想しながら、物語は進んだ。主人公は困窮し、もはや知人もいない。身体の節々は痛み、それどころか、忌まわしい予感を感じさせる鈍痛や苦しさが内臓に感じられる。それでも、彼女は過去にしがみつく。自分を捨てた若い男の幻影。遠い昔、彼女に手を伸ばした男たちの追憶。そして彼女が手を伸ばし続ける、美しい恋の思い出。
 それは彼女の物語だった。しかし、彼女の自叙伝ではなかった。彼女は自分の生きた歴史を、描かれる主人公のキャラクターと巧みにからみ合わせ、引き離し、そのどちらともつかないところに幻想的な語りをつくりあげた。それは作家としての彼女の集大成と言ってもよい、絶妙な手腕だった。
 おそらく誰に送る当てもないまま、彼女は一年近くもの間、その物語を綴り続けた。他のことは何もしなかった。彼女の身体は衰弱していた。いつしか、彼女はベッドから起き上がらなくなっていた。それでも彼女は、必要なものを手近にすべて並べて、飲食さえろくにしないまま、結末まで這うように進んでいった。
 私はあの場所に行こうと、そして私を使って食事でも、手伝いでも用立てるように訴えようと、連日連夜、そればかりを念じていた。しかし彼女が執筆しているあいだ、夢の世界のつけ入る一切の隙はなかった。彼女の言った通り、私は見守り続けるほかなかった。
 ある春の未明、孤独な老女は追憶に眼を閉じて、物語は脱稿した。彼女は最後の力を振り絞り、それを店で印刷した。

 その後すぐ、彼女は床についた。
 彼女はうなされていた。私は極力何も考えないように、意識を失うようにと、ただ室内で渦を巻いていた。うまくいきかけると、たいてい彼女は目を覚まして、数万円の入った財布を無造作につかんでスーパーマーケットやドラッグストアに行くのだった。そして必要なものを買い込み、また寝付いた。そうすると初めからやり直しになった。
 彼女はベッドの側に財布を置いていた。いまでは、それが私の本体と言ってもよかった。年金の振り込まれる口座にはまだ貯えがあったけれど、彼女に銀行に行く気力はなかった。
 彼女は私を忘れていなかった。そのためか、何度かあのカフェのようなところへ出ることができた。しかし老いて痩せさらばえた彼女は、いつもテーブルに突っ伏して寝ていた。もうコーヒーも供されていなかった。異様な体臭だけがそこに満ちていた。
 いつかのように銀行に押しかけようと思った。しかし壁をすり抜けることはできなくなっていた。私は彼女に繋ぎ止められていた。眠り続ける彼女の側に。

 最後に彼女と言葉を交わした時、彼女はあの場所で珍しく目覚めていた。恰好は現実と同じく荒れ果てていたが、かつてのように端正に、静かに窓際の席に座っていた。夕陽も落ちて、室内は薄青い夕闇が満たしていた。
 「やっと、話せた」席に着いた私は言った。その声はひどく嗄れていた。
 彼女はテーブルに向けていた眼を上げた。「久しぶり」
 「前にきみは言ったはずだ。少しの間見守っていてほしいと」
 「そうだった、かもしれない」
 「もう、書き終わっただろう。きみの集大成は」
 「書き終わった」
 「だから、これでおしまいだ」私は肘をつき、震える身体を彼女の方へ乗り出した。声も同じくらい震えていた。「私を全部使え」
 「何に?」
 「医療費だ。ずっと切り詰めていただろう」
 彼女は答えなかった。私は続けた。
 「言っただろう。もう、愛の話は終わりにしろと。この先は私を、きみのために使う時だ。愛なんかじゃなく。きみのために」
 「だって、あなた、言ったのに」彼女は弱々しい、掠れた声で言い返した。「私を信じればいいって。私を愛すればいいって」
 「それとこれとは別のことだよ。私はきみの人生を守るためにある。そのために使われるのが私なんだ。だから私を信じて、私を使え。今はその時だ。ずっと前からその時だったが、今そうしなければ、もう手遅れになる」
 「――あなたまでいなくなったら、私はどうしたらいいの」
 私の脳裏に、数十円になった日や、血まみれになってここで倒れた日の情景が鮮やかによみがえった。きみも思い出せ。きみが生きている限り、私もまた存在し続け、きみを支えてきたはずだ。きみは老いている。何もかも忘れている。そう言うべきだった。老女の顔が私を見つめていた。
 「あなたにまで、置いて行かれたくないの」
 彼女は続けた。口をついたのは、別の言葉だった。
 「それは、愛か」
 その途端、私は時が巻き戻った錯覚を覚えた。そうではなかった。夕闇も、彼女の死臭も変わらなかった。しかし老女の顔には、少女の表情がありありと浮かんでいた。怯えた表情。それまで逃げてきた何かに直面し、防御が間に合わず、打撃を受けてしまった時の痛み。私の身体の震えがひどくなった。どうしようもなかった。それを彼女のために求めることと、それを自分のために問うことは別物だった。どこから自分が狂ったのか、すべてを数え直しながら、私は少女のような彼女の顔を見つめ続けた。やがて私を見つめる眼からは徐々に怯えが消え、代わりにただの涙が浮かんできた。美しい水滴だった。
 彼女は顔を覆って、下を向いた。私の頬を、現実にはあり得ようもないものが熱く伝って、テーブルの上に垂れた。私の涙とはいったい何なのか、未だにそれすらわからないままだった。


 私が意識を取り戻したとき、彼女は久方ぶりにパソコンを動かしていた。何を書いているのか、私は一瞬で感じ取ることができた。彼女がそれを印刷しに町へ出る間、私はほとんど実体を取って、その後ろを歩いていた。紙を持って帰ってくると、彼女は判を押し、日付と名前を書いて、それを引き出しの奥深くにしまった。
 それからの彼女は、短い間で急速に朽ちていった。することに意味が通らなくなった。時間があれば風呂に水を溜めて、それを覗き込み、掻き混ぜてばかりいた。食事と称して菓子ばかり食べ、着替えもしなかった。民生委員も状況を察していたが、家から出てこない彼女に何もできなかった。
 もう晩夏になっていた。冷たい風の夜、彼女は急に戸外へ飛び出した。強い風は遠い潮の匂いと、昨日の雨で増水した近くの川の水音をやけにはっきり伝えていた。
 私が何かを察し、何かをする前に、彼女は川の土手を降り、増水した川へ分け入っていった。遠くに人影があり、ライトを振り、近づいてくるのが見えた。私は彼女を追って水流の中へ飛び込んだ。私という概念の中を、汚い冷たい水がごうごうと切り裂くように流れていった。私はもはや汚水と同じだった。何もかもが混濁して行くのを感じた。それでも、私は彼女に、概念としての手を伸ばした。手は彼女をすり抜け続けた。
 彼女はライトに気付くと、腰に届きそうな川の流れの中で立ち上がりながら、手を振った。
 「今行くから。今行くから。そこにいて。今助けてあげるから」
 彼女はぞっとするほど明るい声ではっきりと叫んだ。
 ライトは思ったより遠かった。それがそばに来るより前に、彼女は濁流に脚を取られ、晩夏の冷たい水の中へうつ伏せに倒れた。


 7

 彼女の死と同時に、彼女の遺言は発見された。彼女の遺産と最後の原稿の版権は、彼女を見出した出版社に寄付されることになっていた。
 彼女の最初の編集者が申し出て、彼女の葬儀を取り仕切った。今は大御所となった編集者は思うところがあったのか、簡単な葬儀のために自腹を切った。
 わずかに残された私は、彼女の名を冠した小さな文学賞の基金とされることになった。いくら寄付金とはいえそんな賞が設立されたのは、残された彼女の原稿を読んだ編集者たちがそうすべきと熱っぽく訴えたからだった。
 「これは文学ですよ」彼らは言った。「あの人はたしかに一度小説を捨てたけれど、そんな過去すら丸ごと飲み込んでしまう、本物の文学だ」
 「これは人生への愛の話、そのものですよ」最初の編集者は、重々しく頷いた。
 その感想が彼女の悲劇の死によって飾られたものではないのか、それは私にはわからなかった。私は彼女の作品をどれもかけがえのないものと思っていたから。ともあれ、その小説の売り上げや、今後の受賞作の売り上げの一部も、私に足されてゆくことになった。しかしそれは数年先のことになるに違いなかった。
 そしてそれは、数年先もそのあとも、私は彼女の遺産として、死ねないということだった。私の意識は変わらないまま、彼女が見ていた私の姿は、早晩移ろって消えてゆくに違いなかった。

 秋雨の降る頃、葬儀とは別に、彼女を偲ぶ会なるものが開かれた。半ば以上は出版の決まった彼女の遺作のためのセレモニーだったとはいえ、出版関係以外のさまざまな人も訪れた。
 その日、私はホールのある建物の玄関口に所在なく立ち、出入りする人々を眺めていた。覚えている者も、いない者もいた。彼女と親しんだ人物の子供が来ていたりもした。時折彼女の文学賞の話をする人がいて、そのたびに私は喪服を着た自分の姿がこの場に現れるような気がした。
 会の半ば、少年が一人でホールの方から歩いてきた。彼は私の前に差し掛かると、こちらを見上げ、親しげに明るく笑いかけた。
 私はぎょっとした。彼が私をみとめたこと以上に、妖精のような少年の顔にはどことない、それでいてはっきりとした見覚えがあった。それは偽・田丸君によく似ていた。しかし偽・田丸君はもう老人のはずだった。孫が来るとも思えなかった。
「君にあいさつしたかったんだ」少年は言った。「あの子を愛してくれて、ありがとう」
 彼は固まっている私の前を過ぎると、雨の降る外へと小走りに駆け出した。その瞬間、私は、彼こそが田丸君その人だと気がついた。
 私は身を翻して、彼を追って建物の外へと飛び出した。しかしどこの角まで行っても、もう彼の小さな姿は見えなくなっていた。私は街角に、秋雨に打たれて立ちすくんだ。雨滴が次から次へと眼に入って流れ落ち、いつまでも私の頬を濡らしていた。


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