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【短編】ソープ・オペラ

 全く先の見えない就活をしていた2年前、息が詰まって確か2時間くらいで殴り書いた短編。今読み返したら当時の闇がよく出ていて、2時間もののわりには悪くなかったのでインターネットの海に放流します。

*   *   *   *   *   *   *   *   * 

 男の手から包丁は滑り落ち、血の海になった床に音を立てて落ちた。女の身体が、柔らかな動きとともに後を追って床へ崩れ落ちるのを、彼は為すすべもなく見ていた。
 ――彼女の命の終わりは、これで僕と永遠に結びつけられた。
 旦那さん、さあ、僕を警察にでも連れていけ。僕は、この先ずっと、彼女と結びつけられるんだ。結婚なんていうありふれたものじゃない。世間が焼き付ける、拭い去れぬ、罪という名の烙印――


 常盤の目の前に現れた女は、ともに現れた古い形のコンピュータをパタパタと叩いていた。
「やあ、常盤君」
 小さなテーブルの向かい側に唐突に現れた彼女は、残念ながらロマンスの香りを僅かばかりもまとってはいなかった。まだ若いようだが、化粧もしておらず、だらしない服装と髪型をしている。顔もよく見ると美しいということは残念ながらまるでない。
「君の話を書いているんだ」
 彼女はうつろな目で、うつろな眼鏡越しに話しかけた。眼鏡は細いフレームが歪んでいる。
「僕の話」
「君の話さ。私は君の創造主だからね」
「絶望で背骨が曲がりそうです」
「もう曲がっているんじゃないかい」
常盤は一生懸命背筋を伸ばしてから、尋ねた。
「僕が『ソープ・オペラ』を書くように、あなたが僕を書くということですか」
「そこなんだけどねえ。君が書くものは私も書かなきゃいけないのは道理だよね」
「ああ、確かに」
「私の手間は二倍になるわけだ。それで思いついて、君に直接話しかければ君と合作ができて、少しは楽になると思ったのさ」
「なるほど。それでお出ましに」
「そうそう」
 うつろな女は目を合わせずにため息をついた。
「ほんとはES書かなきゃいけないんだけど」
「ニートですか」
「大学院生さ。こう見えて高学歴だぜ」
 これが高学歴の大学院生では、むしろ日本の高等教育は終末を迎えているのではないかと思ったが、常盤は黙っていた。創造主相手には下手に出た方が良い。
「まずねえ、君、間違えてる。ソープ・オペラなんて言葉は使わなくなって久しいけれど、ソープ・オペラには石鹸も出てこないしそもそもオペラじゃない」
「え、じゃあなんなんですか」
「昼ドラ」
「昼ドラ」
「あ、そうか。君、私より十七個くらい年下なんだ」彼女はむむむ、と呟いた。大変かわいらしくない。「昼時とかに昔主婦向けにやってた、どろっどろのメロドラマ」
「え、それだけ」
「うん、それだけ」
「知らなかった」絶句してから、常盤は気づいた。「知らないように貴方が俺を作ったんだ」
「そう。ごめんよ。でもね、いつだって人は過去の人間を未開人と蔑み、未来の人間を無知なるものとして見下すものさ」
「で、僕にどうしろと言うんです」
「一番簡単なのは、見てきたものを書くことさ。私も君と一緒に介入しないかい、私がやったみたいに。その、『ソープ・オペラ』にさ」
「できるんですか」
「できるできる」彼女は彼のデバイスを持ち上げた。
「よいこらせっと」
「嘘だろ」

 血塗れの殺人現場に突然現れた、よれよれのジャージを着た、貧相な清潔感のない青年と、ぶかぶかのスカートから太い足を出した若い女の二人連れに、佐伯は唖然とした。目の前の、妻を刺した青年も呆然として二人を見つめていた。
「やあやあ、修羅場をごくろうさま」
 太い足の女の方が暢気な声を上げた。「いや、しかしやばいなこの情景。血恐いわ、血」
「俺は書いてないぞこんな場面。あんただろう」
「間違えた。ごめんよ。これがほんとの『ソープ・オペラ』の一場面――みたいなもんだと私も思う」
「あんたからして想像か」青年が声を荒げた。
「お前らは誰だ」佐伯は、美しい妻が刺され、間男が切れ長の眼を陶然とさせながら罪を語るその現場に現れた、この世の「現実の醜さ」を凝縮したような二人組に目を向けた。
「わたしは創造主。これは君たちの仲間、私の被造物」
「はあ?」
「はよ、救急車呼び、お兄さん」女の顔が青ざめているのは、本当に血が恐くなってきたらしい。お兄さんとはどっちだ、と眉をひそめてから、女の目が自分に向いているのに気づく。「奥さん、助かるで――そしたらあんた、そっからはあんたのターンや」
「……そうか」
 彼はふらふらと電話機に近寄っていった。
 さ、いったんここはうちら撤退するで、と女が言った瞬間、彼らの姿は消えていた。

「俺が許せないのは似非関西弁なんだが」
「何、君、似非関西人に親でも殺されたの」
「やめろ、俺に得体の知れない過去を設定するな」常盤は眉を顰めた。「親が関西人なんだ」
はいはい、と女は汚い頬を掻く。「じゃあ、今度は君のソープ・オペラに連れてってくれる?」
「あんたのその『よいこらせ』が俺に出来るか」
「できるできる」
 女は彼の手を取った。ほい、という掛け声とともに、常盤と女はきらびやかな待合室にいた。壁には下着姿の女の写真がたくさん貼られている。
「嘘でしょ」女はふらついた。思わず、「ソープ、って、こっちなの」
「あんたの管轄外か」
「管轄外だよ。なんで私に風俗店のことがわかると思うんだ」女は息をついた。「で、ここで何が起こるの」
「風俗嬢たちが歌劇団を結成する」
「何それ、面白いじゃん」女はため息をついた。「でも私、ソープのこととか調べたくない」
「取材は必要だって言ってただろうに。物書きの風上にも置けないな」
「調べるよ。調べればいいんでしょ」
 その時、待合室の戸が開いた。一人の若い女が入ってくる。
「初めまして、わたしがミナミです。常盤さん、ですか?」
 汚い創造主の女がおや、という顔をした。それほど綺麗には見えないこの場所では、似つかわしくないほど上玉と思われる、白く華奢で美しい娘だった。しかしおそらく、彼女が驚いたのはそこではなかった。
「あんた、この子指名したの?」
 常盤は答えるべきか迷って何とも言えない顔をした。「ええと、まあ、俺です」
「今日はよろしくお願いします」美しい娘は笑って、先に立って行った。どうやら汚い女の姿は見えていないらしい。
「まあ、いいんじゃない、自分が書いた子とやるっていうのも」女はひらひらと手を振って、常盤を見送った。

 常盤が店を出ると、女が待っていた。「ほんとに、ほんものだったの」
「どういう意味?」
「本当の人間だったのか。――下世話な聞き方をすれば、本当に、やれたのか」
「ああ――本物だったよ」常盤はぼんやりと、美しい娘の微笑みを思い出した。
「あの子何であんな所にいるの?」
「悪い先輩の借金を背負ったんだ」
「へえ、そりゃまた三秒で考え付きそうな――つまりそれは私が三秒で―――」
「俺、あんたなしでその『よいこらせ』ができるかな」
 女は常盤の顔を見上げた。
「できる、できるけど、あんた、良くない道に踏み込んじゃったんじゃない」
「何が良くないだ。世の中の同人誌出してるやつらはほぼやっていることが一緒だろ」
「まあ、それもそうか」
 女は常盤に解説を始めた。それから二人は、そろって常盤のアパートに帰った。

 椿姫をみんなでやろうってことになったの。だって、娼婦のお話。
 そりゃソープ嬢と高級娼婦は違うけど。抱えた悲しみは似ていて。
 ……でも椿姫ひとりじゃ、わたしたちみんなは出られない。だから、そうね、五人の椿姫。
 そういうオペラに書き直すことにしたの、脚本家になりたい子が書いてくれるって。歌はそれぞれで分担するのよ。いいでしょう?

 今度あたしたち、オペラやるんです。椿姫。そ、このお店の嬢みんなで。
 案外あたしたち仲いい――のかな?まあ、仲良くなくても、やるんです。観に来てくださいね。

 そりゃ、この子たちはソープ嬢ですけど……この町の一員でしょ。こんなちっぽけな劇場、ストリップやったっていいくらいなんだよ。
 何?ストリップの方がまし?何言ってんだいあんた。
 いいや。私が請け負いましょう。貴方たちにこの舞台を貸すと。

 上演できることになったんです!椿姫。居た子が辞めちゃったり、声が潰れちゃったり…大変だったけど、もうすぐです。もうすぐ。
 いつも応援してくれてありがとうございます。変な嬢だったでしょ、わたし。ごめんなさい。せめてしっかりご奉仕しますから――

 ああ……そうなの、わたし、OLなんかしてなかったの。ソープ嬢よ。
 でもね、佐伯くん。わたし、ちゃんと生きてるから、安心して。
 わたしたちはたったひとりの椿姫じゃないの。椿姫になれないから、それぞれの人生を生きていくのよ。アルフレードになれない男を愛したり、張り倒したり、しながらね。
 だから、聴いて――わたしたちの歌。いいえ、わたしの歌。

 
「物語は終わり、あの子はソープを辞めて郷里の幼馴染と一緒になったと」
 いつの間にか現れた創造主は、今度はよれよれのパジャマを着ていた。
「せっかく君、通い込んでえらくいい男になったのにねえ」
「あんたが俺を作ったんだろう」
「そっちの物語を書いた責任者は君でしょうに」
「ああ、クソ。石鹸工場の話にしておくんだった。そうなれば別に仕事を辞めることもなかった」
「それ以前に、佐伯くんなんか出しちゃったのが問題だろうに」
「早く言ってくれそれを」
「まあ、物語に純愛は必要だから。我々のようなへっぽこ創造主には特にね」
 常盤と創造主は、一瞬だけ、互いに深い同情と憐れみを込めた視線を交わした。
「で、どうするの」
「わからないからあんたに聞いてるんだ」
 二人のへっぽこは、鏡合わせのようになって沈黙した。
「……頼む。俺はあの子に恋してしまった」
「だろうねえ、見ればわかるよ」
「もう一度会いたい」
「まあ、私に言えるのは、続きを書けば、ということぐらいだねえ」
 どうしてもESが書けないんだ、と呟きながら、パジャマ女と古いパソコンは姿を消した。

 ミナミ、本名はるかは、今ではある田舎町で毎日ぼんやりと暮らしている。
 結婚して主婦になったが、佐伯くんは知らない都会で身体を売っていた彼女を、深く愛していたからこそ信じきれなかった。だから転職して田舎町に引っ越し、彼女を何もない場所に閉じ込めて、彼女の全てを自分で満たそうと考えた。言動はエスカレートし、求めるものは多くなり、彼から解放されている昼間、はるかは美しい顔を曇らせている。
 その田舎町に、学生のような青年が訪れてきたのは、結婚生活が二年を過ぎた頃だった。かつて、オペラをみんなでやろうとした、哀しくも楽しい思い出。あの頃の客だったと気づいた。何度か会いにくる中で、見違えるように垢抜けて言ったのは覚えているが、その印象のまま、今でも不思議なほど年は取っていない。
 あなたが忘れられなかったと、青年は彼女をかき口説いた。どうやって今いる場所を知ったのか、彼は何者なのか、不思議なことは多かったが、はるかは気づけばその青年に心を許していた。仕事とはいえ、かつては身体を許した間柄だった。何もすることのない田舎町だった。その間柄に戻るのに、さして時間はかからなかった。

「それがあなたの知っていることですか」
 佐伯は昏睡した妻の病室に現れた、ふとましい若い女の言葉に頷いた。彼女は妻に頼まれていた、探偵社の人間であると言った。
「ああ。……あの間男の正体をあんたは知ってるようだが」
「あー。まあ、依頼されていたことなので」女は頷く。
「ですが貴方は、貴方の奥さんを何をどうしても手放せなかった。どこかへ隠そうとさえした。奥さんも、心の底では、やはり貴方を想っていた、貴方の選択を支持しただろう、と貴方は思っている」
「当たり前だ」妙に踏み込んだことを平気で言ってくる探偵だ、と佐伯は感じる。そういえば、あの修羅場で、救急に電話を掛けろと言うひらめきが下りてきたとき、なぜだか、ひらめきはこんな不躾な声をしていた気がする。
「厄介な男を残していきましたね、彼は」
「何の話だ」
「いえ、すみません。こちらの話です」女は哀しそうに言った。
「……奥さん、元気になると良いですね」
「望み薄だそうですよ」
 佐伯はうっすらと笑った。
「まあ、僕が一生彼女の面倒を見ます。ともに朽ち果てます」
 探偵は目を細めて彼を見た。
「ああ、なるほど」
「なんでしょう」
「……いえ、ね。やはり奥さんは、貴方を愛しているのでしょうね」
「……ええ」
 それじゃあ失礼しました、と不躾な女は慇懃に頭を下げて出ていった。

 きちんと面会を通せ、と言ったが、創造主は私は創造主だから、と平気で独房の中に現れた。
「ひとつだけ聞かせてほしいんだ」
「なんだ」常盤は壁に凭れる。看守は今は近くにいない。
「君はなぜ、こんな最悪の方法を選んだんだ」
「最悪の方法?」
「彼女と永遠に結ばれる道は他にもあったはずなのに。何せ、君は創造主だったんだから」
「ならばあんたにも判るだろう」
 彼は自分の創造主をぐったりと見上げた。
「己の作ったものであっても、世の理には逆らえないのさ」
「つまりそれは、純愛は不毀不滅で、何があっても佐伯さんは彼女を愛し、彼女は佐伯さんを愛する、と」
「……だから俺は、彼女の世界の世の理で、彼女と結ばれるほかなかった」
「じゃあ、もう一つ聞こう。ここに君のデバイスを持ってきました。……帰る気はあるかい?帰って、君の『ソープ・オペラ』を有名にするんだ。そうすれば君はずっとミナミちゃんとともに居られる。作者として。佐伯さんより近い者として」
「わかって聞いていると思いたいが」常盤は冷たく答えた。
「まあ、わかって聞いていますよ」
「早くあんたは、あんたのところに帰って、ESを書け。就職しろ。俺にかまうな」
「お兄さん、哀しいね、我々は」創造主は最後まで馴れ馴れしかった。「我々は世の理に逆らえない、ほんとうに、その通りさ。……私は私を書き換えられないし、それに、私のところには、私の創造主は現れてくれないらしい。私も君の同類さ。いや、同類や」
 常盤は鼻で笑って、終わりのない愛の追想の中へ沈んでいった。

 そこで私はここへ帰ってくると、自分の手の触れられない世界を書き始めた。ソープ・オペラ。安い三文劇。私の永遠に知ることのない、たぶん誰も知ることのない、どろどろとした愛の世界。常盤君のことは別段好きにはなれなかったが――例えばあの時彼を刺していたら、私の世界は変わったのだろうか?いや、しかし、あの世界から帰らないことを選択しない限り、この世界は変わらないのだ。常盤君がいないまま、彼の世界をこうして私が回していくように。ESは書きあがらず、そして創造主は、まだ――現れない。


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