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愛の話はしないで 2

 3

 彼女の両親が亡くなったのは、それから数年後のことだった。数十年ぶりに二人で海外旅行に出た彼らは、その地で災害に巻き込まれたのだった。彼女は仕事を休み、外国まで遺体を引き取りに行った。
 すでに荼毘に付されたその遺骨を並べて、彼女は葬儀を営んだ。彼女は遺産のほとんどを相続したが、残されたローンを返したり、葬儀代を引いたりするといくばくも残らなかった。彼女はすべてを整理すると、彼女の生まれ育った家を売った。
 私は私に馴染まない、遺産という新たな身体に落ち着かない気持を味わっていた。大した額ではなかったとはいえ、故郷の家を手放した彼女にとって、私という存在は、今や両親の形見そのものともなったのだ。
 今や私は、かつての私のように、彼女にとって自由の象徴ではなかった。初め、私は彼女の自由でありたいと願った。かつて幼い彼女がしたように、今、ここで自分を使い潰してほしいと何度も願った。
 しかし何をどれほど願おうと、私はただの概念だった。彼女はそうしなかったし、私には何もできなかった。天涯孤独になった彼女のそばで、私は相変わらず貯蓄されるほかなかった。ただそこにあることが、彼女の盾として、私にできるたった一つのことだった。

 数か月後の朝、彼女は身支度の途中に床に倒れた。床に衝突した肩が小刻みに震えたかと思うと、吐瀉物が床に広がった。
 私には何もできなかった。彼女の周りを廻った。今、貯金が役に立つことを一から十まで思い浮かべようとした。しかし何もなかった。吐瀉物の臭いと、鈍い蛍光灯の光、動かない彼女だけがそこにあるすべてだった。
 やがて彼女は意識を取り戻したが、それからも寝付いたままだった。眠っている間、彼女は譫言をつぶやいた。そこに例の名前が聞き取れないか、私は耳をそばだてた。「どうして」という言葉のほかは聞き取れなかった。
 やっと目を覚まして彼女が病院に行くと、医師はもっと早く来なかったことを責めた。
 「動けないし、電話もできなくて」
 「誰かと普段から連絡を取ってなきゃいけませんよ、様子を見に来てもらえるように」
 「私、どこにも身寄りがないんです」
 医師は点滴に繋がれて横たわった若い女を一瞬、探るような目で見まわした。それから気まずげに、手元のカルテに目を落とした。

 彼女が入院を終えて会社に戻った時、みなが目を逸らしたのは、多少の負い目のせいかもしれなかった。彼女も目を逸らした。すべてはなかったことになった。
 彼女は古い友達に連絡を取り始めた。彼らと会って食事をし、微笑んで別れた。その程度の散財を咎めるほど、わたしはもう弱くはなくなっていた。しかしそれらの会合は、ただそれだけで終わった。
 何度も連絡を取りたがる者が一人だけいた。数度会ってから、彼女はその女が何かを信奉し、勧めようとしていると気付いた。それが何なのかわからないまま、彼女は女の勧めに乗った。持ち前の好奇心が働いたのかもしれなかった。
 彼女はセミナーに参加した。貸会議室の窓のない部屋の中で、身体のない私の感覚が、ひりひりと疼き始めていた。知り合いの女と、彼女と、ほかにも数人の真面目そうな男女が、小さい机に向かっていた。講師と名乗る女が現れ、笑顔で場をほぐした。
 友愛と信頼について語られる間、彼女は曖昧に頷いていただけだった。しかし数週間後にまた出かけて行った。やがて講師と仲良くなり、別の講師を紹介され、本や茶や塩を買った。
 彼女が通う場所は、郊外の小綺麗な建物になった。そこに入った瞬間、私は四方から何かに引っ張られた。彼女ではなく、私を狙っていた。私はもがきながら辺りを見回した。靄のような体に同じ顔をした白い「財産」たちが、靄のような手で私を掴んでいた。
 「やめろ。私は彼女のものだ」わめいても、彼らは私を離さなかった。私はそれを振り払いながら、必死で彼女の後を追った。そこに行く度にそういうことが起きた。
 数か月経った頃、彼女は地位が高いという人物に神について、彼らが求める神の救済について説かれた。彼女は神の愛について尋ね、地位の高い人物はそれに穏やかに答えた。彼女はその場で泣き崩れた。

 彼女は会社で遠巻きにされ始めた。彼女は定時で帰り、団体の活動にまつわる出費は増えていった。私は真綿で締められるというあの表現の通りに、息詰まり始めた。私は私の記憶だけを頼りに、必死で自我を保とうとし続けていた。
 今や彼女はすべての余暇を団体の活動に使っていた。チャリティと称するバザーやコンサートを企画し、勉強会を開催した。
 その神の愛は博愛だった。彼女もまた神に愛されているし、愛される資格があると彼らは説いた。しかしそのままでは愛を知ることはできない。彼女たちは愛の代行者にならねばならない。そのように愛して初めて、人は神の愛を知ることができるのだ。彼女は見知らぬ、一度来て去っていくだけの人々を、神のように愛そうとした。

 一年が過ぎた頃、彼女は仲間からの批判に直面した。敬虔さのない活動は偽善に等しい、と。それは、彼らの予想以上に狂信的な眼をし始めた彼女に対する牽制だった。
 「私の活動に、愛がないというんですか」彼女は珍しく強い語調で言い返した。
 「活動が目的になっているというのです。私たちの目的は神の愛を受け入れることでしょう」彼女を呼び付けた、リーダーと呼ばれる人物は低い声で言った。
 「愛のためにしているんです」
 「ならば考えが足りない。マルタとマリアの話を思い出しなさい」
 「具体的にどうしろっていうんですか」
 「具体的に、と考えること自体が間違っている。愛は具体的なものではないのですよ。あなたが追及しているのは神の愛ではない。あなた自身だ」
 「なら、どうすればいいんですか」
 「私たちの言うことに従い、祈るのです」
 それからの彼女は、仕事も手につかなかった。何度目かに「宗教狂い」と怒鳴られたとき、彼女は鞄から辞表を出し、職場を後にした。毎日十何時間も彼女は本を読んだ。周囲はそれでも冷ややかな顔をした。彼女は別の町にある団体の支部に行った。そこには別の地位の高い人物がいて、彼女の訴えを聞いた。
 「ぜひ私のもとで活動しなさい」
 その言葉を聞いて、彼女は次の日には引っ越し費用を算段していた。私にはもう何を考える気力もなかった。ただ残骸のように、彼女の後について行った。
 彼女はもう、私を私と認識して使っていなかった。それは私が象徴したものからの自由でもあり、私からの自由でもあった。神の愛の概念が、私から彼女を奪っていった。荷造りをする彼女の眼は、澄んで爛々と輝いていた。
 しかし、彼女を呼んだ人物はすぐ遠くに異動し、彼女は結局また一人になった。彼女は神にだけ縋った。毎日早く起きて建物に通い、礼拝堂の掃除をし、本を読み、特別な塩を食べ、夜遅くまで企画書を書いた。それさえも、彼女は遠巻きに眺められていた。新しく借りた自宅の水道はすぐに止まった。もう塩と茶のほかは、ほとんど口にしていなかった。

 冬の朝、彼女は突然嘔吐して倒れ、起き上がらなくなった。それはそうだろうと、がらんどうの部屋を満たす朝の光の中で私は思った。私はぼんやりと、ついに息の根が止まりかけている感覚を味わっていた。それから、彼女が死にかけていると気づいた。
 それは数年前の再演だった。見る影もなくうつろになった私は、ただ彼女のきれぎれな鼾を聞いていた。一人で死ぬことを恐れたはずの彼女は、私を振り捨て、命を顧みず、なぜかこうなることを選んでしまった。これは私の主人の運命だった。
 そのとき私は、心臓の音を聞いた。重く高鳴る、地異の予兆のような律動。私は凝然とそれを聴いた。音は止まず、ますます速くなっていった。
 彼女は死にかけていた。
 この音は私の音だった。私は焦っていた。手足が実際にあるならば、それはきっと震えていた。不意に思考が回り出した。私は薄い壁をすり抜け、冷たい空気に満ちた戸外へ飛び出した。
 朝の街路を滑った。私の中でさらに言葉が滑っていた。私は思考を、言葉を懸命に回した。これが私の考えだと、何度も私に言い聞かせる。彼女が契約した銀行の赤い看板を捜した。駅前にそれはあった。開店したばかりだった。私はガラスドア越しに中を見た。私はここに預けられた、今や数千円になった自分という存在を念じ、彼女の顔をさらに強く念じた。それから通りがかった客についてドアを抜けた。
 銀行の床が足に触れ、冷たさが、脚を、這い上ってくるのを覚えた。成功を知った。私には身体があった。銀行という場と、私をめぐる口座契約と、私の意志の力がここに身体を形作った。係員と警備員が駆け寄ってきた。
 「どうなさいましたか」言ったのは警備員の方だった。
 「家族が死にかけている」掠れた男の声は、今まで夢で発した声と違っていた。「家の電話は止められている。電話を貸してくれ。救急に電話する」
 「それは、警察などに」
 「電話を貸してくれるだけでいい。私が強盗に見えるのか」
 私は膝をついた。立っているのもやっとだった。私はカーキのくたびれたカーゴパンツを履き、その裾から膝まで血の染みがべったりとついていた。いや、これは強盗に見えるな、と思った。
 目の前に子機が差し出された。
 「ここで掛けなさい」警備員が険しい顔で言った。
 私は119を押した。震える声で、彼女の夫と名乗り、彼女の家の住所と鍵がかかっていることを告げた。不審がる救急隊員がそれ以上尋ねる前に、私は電話を切った。
 「ありがとう」私は子機を返した。待合の客たちは振り向いて私を遠慮なく見ていた。
 「あんたも大丈夫なのか。死にそうだぞ」警備員は心配とも警戒ともつかない口調だった。
 「いや、いいんだ。ありがとう。いつもありがとう」
 私は筋の通らぬことを言いながら、ほとんど這うようにガラスドアから銀行を出た。冷たい街路の空気が身に当たったとたん、身体が冬風に溶ける感覚とともに意識が遠のいた。

 目を覚ますと、眼前には木の羽目板があった。床板の上に倒れていたのだった。あたりは明るかった。少し眼を動かすと、木製の机と椅子の脚のようなものが見えた。
 私はそろそろと身体を起こした。私の背後、一メートルほど向こうに彼女が倒れていて、やはり起き上がろうとしていた。
 私たちは半ば身を起こしたまま、茫然と見つめ合った。
 「あなたは」
 「前にも会っただろう」
 「あなただったんですね。顔が、すこし違う」
 「誰に似てる」
 「――父か、母か」彼女は目を伏せた。「ここはどこですか」
 「いつもの場所じゃないのか」
 「わたし、死ぬんだと思います。前に助かったのが奇跡だった」
 「奇跡?」
 「きせき」彼女はその言葉が、神に溺れた数年で持った重さと軽さを味わうようにつぶやいた。「でも、おしまい。結局、何もわからなかった。これでいいのかもしれません」
 彼女が身を引きずるようにこちらに寄せたので、私も彼女を支えようと片腕を伸ばした。私は相変わらず傷だらけで、ひどい血の匂いがした。彼女も右手をこちらに伸ばしたが、先に私がふらつき、伸ばした手を床についた。彼女は手を差し伸べたままだった。
 「死出の旅に、お金は持っていけないから。あなたとは、ここでお別れ、ですね」
 私はすぐ目の前の顔と手を見つめた。宙に浮かんだ彼女の言葉への違和感は、ゆっくりと確信に変わった。「違う」
 「ちがう?」
 「きみはきっとまだ生きている」
 「どうして」
 「ここでこうして、私と話している。私は死んでいない」
 「だけど、ここは夢でしょう。それに――今度こそ、助からないと思う」
 「私が救急に電話した。きみに死なれると困るから」
 「救急に、電話?」その眼と口元が残酷にほころんだ。「だって、財産なんでしょう?」
 「電話したんだ」
 「どうやって」
 「金の力だ」
 「わたしに死なれると困るの」
 「当たり前だろう。私はきみのものなんだから」
 彼女の眼から笑いが消えた。硝子の眼差しが突き刺さり、口元に残った逃げ遅れた笑みが、かろうじて言葉を押し出した。
 「そう。あなたは、わたしのもの。確かに、その通りですね」
 沈黙があった。血の匂いに混じって、どこからか、懐かしいコーヒーの匂いがした。この場所には相変わらず私たちしかいなかった。彼女は再び手を差し出した。私はわずかに躊躇してから、体を支え直し、右手を伸ばして、彼女の白い手を握った。
 その手は細く、骨を感じさせて硬かった。握られた手の中が脈打ち、それが彼女の皮膚の下を流れる血か、私の仮初めの身体の下にある何かなのか、わからなかった。彼女の温度と脆さが、ただ右手の中にあった。
 「わたしが本当に生きていたら、戻ってきてくれますか?」
 「戻るも何も、ここにいるのに」
 「でも、使い果たしちゃいました。遺産も、貯金も」
 「昔数十円になったことだってある」
 「そうでしたっけ。そんなこと、ありましたっけ」彼女は握った手を少し揺らした。彼女の俯き加減の眼差しも揺らいだ。「それなら。見捨てないでくれるのは、うれしいです」
 握った手の感覚が、私を混乱させ続けた。何を言えばいいのかわからなかった。ばかげた言葉だけが口をついた。
 「金の切れ目が縁の切れ目というが、逆はない。人間よりも私の方が信用できる、はずだ」
 「あなたは――ほんとに、お金なんですね」
 彼女は笑い、それから、一度強く握って、そっと私の手を離した。右手から全身に空虚が広がった。「おやすみなさい」とつぶやき、彼女はまた床に身を横たえた。同時に私も朦朧として、空虚な眠りの底に墜落した。

 4

 病院のソーシャルワーカーは、彼女に介護職への就職を勧めた。
 「人手が足りないからですか」
 「それもあるけれど、何よりあなたの話を聞いたから。きっとあなたには、誰かのために何かをすることが必要なのよ」
 長期入院にくたびれた顔色の彼女は、少し眼を背けた。
 そうして彼女は退院後、介護職に就いた。近隣の町の小さな老人ホームで、夜勤も連勤も黙々とこなした。中途半端な年齢で採用された彼女は、同僚たちの間で未亡人と噂されていた。
 一度過去について問われた時、彼女は穏やかに答えた。
 「愛の話は、しないでください」
 その抽象的な返答は、同僚たちの好奇を掻き立てつつ、彼らとの間に距離を生んだ。
 老人たちはほとんど彼女を見ていなかったが、彼女はそうであればあるだけ、老人たちに愛の真似事に似た親切を注いだ。やがて彼女は資格を取り、生活費のために毎月すり切れるばかりだった私は、少しずつ、また増えていった。彼女は老人の体位を替え、車椅子を押し、用具を取り換える作業の合間、よく私のことを考えた。私にも、ホームのにおいが染みついた。
 彼女は家でも、よく通帳を見つめていた。宗教団体に足を取られる前、はるかに多かった頃の私を示す字を撫で、いつまでもページをいじっていた。私は彼女の父や、母に似た面差しを彼女の前に現わして、彼らに似た声で囁きたかった。何冊もの通帳の中で引き継がれてきた私は、彼女の三万円であり、ろくでもない店長であり、誇りであり、両親であった。しかしそれを伝える術は、例によってなかった。
 その指は徐々に荒れていき、彼女の眼はうつろになり、代わりにそのやつれていた頬は張りを取り戻し始めた。そうして奉仕の数年が過ぎた。

 ある秋の午前だった。老人ホームを訪れた入居者の息子が、夜勤を終えて控室に向かう彼女をみとめた。
 「――さん。――さんじゃないですか」
 彼女ははっと顔を上げた。大学時代の古い知人だった。
 「どうして、こんなところに」男は無遠慮に尋ねた。
 「こんなところって」
 「だって、消息が分からなくなったって聞いてたんですよ。いや驚きました」
 「いろいろあったんです」
 「大変でしたね」彼は好奇心に満ちた眼で、彼女を覗き込んだ。彼女が目を伏せると、男はきまり悪そうに薄笑いした。
 「そうそう、今でも文章は書いてるんですか」
 「文章……?」
 「文芸の社会人サークルやってるんですけど、どうにも人が残らなくて。よければ参加しませんか」
 彼女の眼に、久々に小さな灯がともった。彼女は男の連絡先を尋ねた。
 彼女は忙しない生活の合間に、少しずつ文章を書き溜め始めた。私小説ともエッセイともつかない、短くきれぎれなものだった。しかし冷たい水に引きずり込まれ、溺れてゆくような孤独は、今もまたその文章のおもてに強く渦を巻いていた。彼女はそれを、男のサークルで発表した。十数人の構成員からささやかな称賛があった。彼女は再び書き始めた。次はもう少し長い物語を。
 睡眠時間が減り、彼女の頬は再びやつれ始めた。しかしその眼は確かに輝きを取り返していた。ときにいくつかの批判があった。それを彼女は取り込んで、また別の物語を書いた。神の愛に裏切られた女の物語。失った幻想を追い続ける女の物語。
 やがて彼女は、それらを実在したある修道女に託して、長編の歴史小説を作り始めた。ワープロのキーボードの音が毎晩、遅くまで鳴り続けた。
 一年半ほどかかって、それは結末を迎えた。病人治療に人生を捧げた修道女は、救いを求めた人生そのものを肯定して、死んだ。彼女は半年ほどかけてさらにそれを推敲した。それからそれは誰にも読ませないまま、印刷して、ある新人小説賞に投稿した。
 果たして、彼女の小説は賞を射止めた。

 「あなたなら専業でやっていける可能性があると思う。こんなこと、誰にでも言うわけじゃありません」
 編集者という整った格好の女は、喫茶店で彼女に迫った。
 「大変失礼なようですが、あなたのお仕事は、その、非常に忙しいでしょう。その分、復職も容易というか――」
「そうですね」彼女は目を伏せたまま答えた。
「一度やってみてはいかがでしょう。いえ、私も無責任なことは言えません。ぜひ一度やってみてください。私が全力であなたを売り出します」
 彼女は家に帰ってきて、再び通帳を開いた。それなりに私は形を取り戻していたが、大金というわけではなかった。私が見ているその前で、彼女は床に座ったまま、ベッドに寄りかかり、眼をきつく閉じた。私の姿を思い出しているのか、それはわからなかった。
 翌月、彼女は八年働いた介護施設を辞めた。

 修道女の小説は手直しの上、刊行された。編集者は確かに、自分の発言に責任を取るつもりのようだった。彼女の文章の特徴を掴み、それが現代の女性の好みにどのように合致するのか分析した。それから彼女に、題材の方向性をそれとなく指示した。彼女は編集者の言う通り、書いた。溺れる理想や、手を伸ばしても届かない何かについて。
 「この冷たい繊細な文章は、あなたにしか書けない。あなたの人生が書かせている。それだけは見失わないでください。あなたの小説を好きなのは、あなたに似た女性たちなんです」
 「そんなひとたちがいるんですか」
 女性編集者は明るい笑顔で頷いた。
 初めの一年、彼女は貯金を切り崩しつつ、別の介護施設で週に数日だけ働いた。私は再び痩せていったが、予想したほどの速度ではなかった。刊行した小説の他、彼女が短編を載せた文芸誌も売れ、彼女は読書家に知られる存在になっていった。三冊目の単行本で、彼女は少し大きい賞を取った。その頃から、私は殖え始めた。
 私を殖やしたのは、印税という奇妙なものだった。労働の時間に対する対価としての賃金ではなく、彼女の文章の価値という数えられないものに払われた、不定形な金だった。そしてそれを払う人々の顔は、私にも、彼女にも見えなかった。
 私は殖えていった。彼女は介護施設でのアルバイトも辞めてよくなった。それどころか、暮らし向きは徐々に向上していった。彼女は六畳一間の安アパートを引き払い、新しいマンションを借りて、ワープロを新調した。それでも私は殖えていった。私は新しい部屋の中に、ガスの靄のように満ちた。彼女は書き続けた。小説は次々と出版された。
 彼女の周りに、人が戻ってきた。久しぶりに会う友人たち。彼女の消息を心配していた知人。彼女の作品を気に入った同業者や業界人。彼女は穏やかな笑みで彼らを迎えた。毎日のように会合があった。交際費は跳ね上がったが、それを気にする必要はもうなかった。
 彼らは彼女の人生の話を聞きたがった。彼女は少しずつ、彷徨した年月について人々に話すようになった。失恋を重ねた学生時代。両親を亡くした若き日。宗教にはまり込んだ遠い記憶。そしてあの初恋の話さえ、優しく物悲しい追憶のようにして人に語った。
 「子供の頃、本当に好きな子がいた。初恋だった。十歳の時に、その子はいなくなってしまったのだけど、わたしはきっと、まだその子の影を追っているの。でもだれでも、そんなことはあるでしょうね」
 人々は興味深がって彼女を分析した。そんな文章が記事になって雑誌に載ったりもした。その流れを、彼女の編集者は歓迎した。
 「あなた自身に注目が集まるのは良いことです。そうすれば、あなたが書いたということそのものが作品のイメージをつくってくれる。言い方は悪いけれど、ブランド戦略というところ。あなたには不本意かもしれないけど、まずたくさんのひとに読んでもらうためには、それが一番いいんです」
 「別に、不本意じゃありませんよ。こんな人生が、誰かの役に立っているなら」
 彼女は静かに答えた。
 編集者の思惑は当たった。彼女は遅咲きの新進作家としての地位を築き、私はその後数年の間にも、加速度的に増殖していった。それは恐ろしい感覚だった。
 彼女は通帳を見るのをやめなかった。文章を書いているときの彼女は、顔が輝き、背筋が伸びていて美しかった。彼女は美しい姿で、孤独で痛ましい、そしてわずかな希望に縋るような物語を紡いだ。しかし通帳を、私を見つめる彼女の眼は、いつも追い詰められたような、卑屈で切迫した痛みを湛えていた。

 その頃にも、一度だけ夢を見た。
 例のカフェのような場所だった。しかしいつも昼間の光で満たされていた室内は、ほとんど真っ暗だった。わずかな残光のようなものが、藍色の窓の外からぼんやりとこちらを照らしていた。例の席の側に、彼女が取り乱して立っていた。その姿は影絵のように、暗い窓の前に浮かび上がっていた。
 私は席についていなかった。あたりを見回すと、無数の見知らぬ人々がいた。距離を置いて彼女を取り巻き、彼女を見つめて立っていた。私が位置する最前列の後ろに、立錐の余地もないほどに詰めかけている。女性が多かったが、男性も混じっていた。
 私は人々の囲みから進み出て、彼女に近寄ろうとした。しかしできなかった。己の意志で動けなかった。私ははっと気づいて、自分をいつものように見つめ直した。
 そこに身体はなかった。
 彼女はこちらを見ていた。身体のない私の方を。
 「あなたは、あなたは」上ずった悲鳴のような、恐怖に掠れた声だった。
 私は右手を差し出したかった。右手などなかった。私は叫ぼうとした。声を絞り出す器官さえ私にはなかった。代わりに、たくさんの人々が呻き声を上げた。私の絶望の叫びは、私という意志の中だけで谺しつづけた。男女の呻き声が高まった。これが私なのか。無数の読者たち、彼女の想像の及ばない、彼女に金を払う読者たちに、私は、乗っ取られてしまったのか。三万円だった私が。彼女のささやかな騎士だった、私が。
 「田丸君」彼女は叫んだ。
 呻き声の合唱がゆっくりと止んだ。静寂の中に、彼女が椅子にくずおれる音が響いた。
 「田丸君、ごめんなさい、田丸君――許して」
 人々がじっと見つめる中で、彼女は彼の名前を呼び続け、許しを乞い続けた。その姿も、その名前も、くっきりとした影となって、藍色の窓の前に浮かんでいた。

 仕事を辞めて十二年の間で、彼女は八の長編と多くの短編を書いた。そのうち長編の一つはとりわけ評判がよく、映画にもなった。
 それは日露戦争で婚約者を失った女性が、愛する人の眠る北の海に行ってすべてを赦すまでの、波乱をふくんだ半生を描いたものだった。歴史の扱い方の鮮やかさと全編に満ちたあまりに深い喪失感、そしてその底にある優しさが、読むものを捉えたのだという。
 「あなたにしか書けない小説ですよ。あなたの痛みで、たくさんの人が暖められているのです」
 誰かが彼女にそう言った。
 その本の評判がひっきりなしに届いていた頃、彼女は毎日十何時間も死んだようにベッドに沈んで、眠り続けていた。この手一つ伸ばせない、ガスのような私に満たされた部屋の底で、誰の名前も呼ばずに。

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