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深海日記 #2

 昼の東京都内は深海には見えない。この日記のことを考えながら昼休憩のために外に出た。空色の空に赤と白のクレーンが屹立している。メモ代わりに写真を撮った。
 もうすぐ死ぬのだと思うと公園の緑や喫茶店の看板が妙に鮮やかに目に映る。別に死ぬ予定はなくても鮮やかだと思い直す。天気がいいのだ。目に映る世界の露出が高い。
 言葉にすること、書き留めることは、そうしたものの一部を二度と自分の中に戻せなくなるということだ。書いたものは化石になって、もてあそぶたびに手垢がつく。書くとは心が死んでいくことだ。だから本当に死ぬのでなければ書けないものがある。不可知の年月を生きることを考えたら、ある程度のものは書かずに残しておかないといけなくなる。やっぱり本当に死期を悟れていたらいいのに、と思いながら、どうせ死にたいのなら、別に大事に生きる必要もないのだと思い直す。コンビニに入る。

 日中は頭が回らない。何度も無闇にメールボックスを開ける。何も考えたくないのは、単に作業量が多いからだと思っている。山積みの年末調整書類には、ありとあらゆる保険の証明が転記されている。そんなにまでして生きることを考える感覚は、理解はできても同化はできない。35年契約の保険。35年も先の現在を考える?私なら、保険会社が潰れる方に賭けてしまう。「生命保険なら、自分が死んだときに葬式代と親への備えを残せますよ」という係の人の言葉を今、思い出している。私の葬式に誰か来るのだろうか。よく考えれば、そんな不格好な会は開いてほしくない。それなら人を集めて遺骸を自宅のトイレにでも流してくれた方が面白いだろう。たくさんの人々が一つのトイレを囲む光景は、思い浮かべるだけでいつも私を笑顔にする。望むように死ぬのも難しい。

 定時を過ぎても頭は回らない。係長は、頼んでもいない付き合い残業をしているように、私には見える。係長がいらいらし始める。私もいらいらしている。先の展望は見えない。現状を聞かれて、「キャパオーバー気味です」と答える。「扶養の確認の最後の砦なんですよ、この作業が」と言い募る。思い返せば、それは人にものを頼む態度ではなかったかもしれない。「私ももう帰ります」と言うと係長の機嫌が悪そうに見える。「お先に失礼します」とあいさつすると、残業している人たちの反応も冷たく思える。反省すべきなのかもしれない。言ったこと自体は誇張ではなかった、と思い返す。自分が社会人ならざるどうしようもない子供に思えて、ものを考えたくなくなる。
 その時私は死ぬことを考えていない。死んだほうがいい、とは思っている。それはつまり、死ねないまま、大人になれないまま、生きる未来を想定しているということだ。 死んだほうがいい、と口に出す。

 自転車に乗って遅い自転車を追い越す。ふと見ると夜の中、自転車を漕ぎながらパンを食べている若い男が、振り向いたこちらを嘲るような目で見る。そのまま私と逆方向に折れていった。惜しかった。恋に落ちるには十分なきっかけだった。そして二秒で終わった。自転車を止めてスーパーマーケットに入る。恋、に落ちる、には、十分、だった。しかし落ちなかった。続きようのない、たった二秒の出来事だったから。他人にとっての恋を考えたくなる。それとは違うものなのか、二秒を掴んで恋にできるのか。冷凍ケースににガトーレーズンのアイスクリームが目を引いた。買ってくればよかったと、今思っている。

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