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今日は喪失の話ですね

先週カウンセリングに行ったら、「今日は喪失の話ですね」と言われた。
喪失。そうしつ。喪失。

喪失は誰とも分かち合えない。立ち上がるのが難しい事柄は、隣人を疲れさせる。何度も人に同じ話をしていられないのである。そうして、人は長い喪失の痛みを孤独に抱えながらカウンセリングに通う。ある人はお金を払ってお酒のお店で話を聞いてもらっているだろうが、世間から見た違いや効果の違いはあれど、またある私はお金を払ってカウンセラーに話を聞いてもらうのだ。ほとんど同じ。お金を払って、明るい部屋か暗い部屋で話を聞いてもらう。共感か同情みたいな反応が得られる。具体的な手立てはない。解決可能な問題ではないゆえに、家族も友達も愛しているから、自分の後ろ向きな言葉をいつまでも浴びせるわけにはいかないのだ。

私たちの喪失はどこへいくのだろう。
損なったものは、何かで修復されていく。凹んだ穴に少しずつ蝋を注いだり、金継ぎみたいにくっつけたり、滑らかにしていく。それは日々の積み重ねで行われるもので、徐々にその喪失が日常に溶け込んでいく。これが一つの考え方。
もう一つは、損なったものは損なったままであるということ。穴が空いたまま、そこに穴があることを忘れたり思い出したりしながら、穴と共に生きていく。喪失という部位を内部に獲得するのである。体にできた空白。
私の一つの恐怖は、喪失を忘れてしまうこと。忘れたくない日々や出来事、人、など、そういうものからこれ以上遠ざからないように、いつでも手に取って懐かしめるように同じ場所にいたい。あまりに普遍的な話だが、幸せになっていくことを罪のように感じてしまう。これ以上あの人が知らない自分を増やしたくない。
そして複雑なのが、それと同時に幸福を渇望していること。毎日のように悲しんでいる自分に退屈していて、どうにか幸福になりたいと思っている。けれどなんとも、毎日悲しいのである。

喪失を修復しようとしたことが、かえって喪失を深めることになる。過食もそういう類だろうか。悲しい時にコンビニのガトーショコラを買っていたら、そういう味がするようになってしまった。これを食べると空虚が増していく。不思議だ。

悲しい話をすると隣人は眉を顰めるようになってしまった。喪失はどこへいくのだろう。どうやって宙に開放するのだろう。損なっている状態が喪失であるはずなのに、実態は重く膨大でほとんど喪失で満ちているようだ。自分を境に内と外で区切るとすると、内を保つためには外に放出するしかないと考えるのだが、外に放出すると外の方が変容してしまう。それは望んでいない。そうか、これがシモーヌヴェイユの言う「純粋」についてなのかもしれない、と思う。

もう一つの方法。喪失を増やすこと。自分が落ち込んでしまうようなことをやってみる。健康的ではないし、当然、これも成功しなかった。

あまりにも長い間悲しいものだから、考えない力を鍛えた。ここぞというときには考えない。思い出すと長引くから。この喪失に向き合う時間をあと何度か経験したら、今度こそ戻ってこれないような感覚がある。悲しみたいほどに悲しめないのもまた、なんと、小さな無数の死を体験しているような感覚である。



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