見出し画像

有限性について

どうしても、死ぬのがこわいの。どうせ死んでしまうのに、といつも思う。何をしてても、どうせ死んでしまうのに、と。まだ思春期なの?と笑ってしまうような気持ちも確かにあるけど、死がこわくなくなる年齢も、いつか終わりが来ることに諦めがつく年齢も、私にはよく分からない。終わりを思って現在を犠牲にしては意味がないよ、終わりがあるんだから生きていることを楽しまなきゃ、という方に思考を持っていこうとしてみる。それに、そう試みるだけじゃなくて、実際に本当に、そう思っている部分もある。けれど、どうも、死ぬことと天秤にかけて、もう死んでもいいと思えるだけのことを人生でしなきゃならないという謎の重圧がある。そんなことでも成し遂げないと、死という大きすぎるものに釣り合わない。生きれるのは一回限りで、しかも終わりがあると言う。突然、テレビの電源がプツッと消えて黒い画面が残ると言うこと。宇宙に宇宙服もなく放り出されると言うこと。ジェットコースターで心臓が浮くような心地がピークとして以後永遠続くということ。この世界の行く末を見つめられないと言うこと。輪廻転生を信じても、私の意識がないのなら意味がない。いっそ出家でもしてこの苦しみに向き合うべきなのかとすら思う。神にでも縋らなければ、どうしてこの悲しみに解答など見つけられるのだろう。部屋にある植物の元気がなくなってしまっても私は、水をやる元気がなかった。今も毎日、どんどん乾いていく植物を見つめている。ただただ見つめている。ものぐさで植物も育てられないような最低なやつだと思っていたけど、どうも死を理解するプロセス、生活にそれを馴染ませること、としているような気がしてきた。考えすぎだろうか。けれどそれ以外に、なぜ自分が水をやらないでいるのか理解ができない。気に入って買ったのに。やはり、全てが無駄なことのような気がしてくる。好きな人がポッドキャストで「人生って水のゆらめきみたいに些末な、とるに足らないものなのかもしれないけど、誰かがこの明るい地上にいて生きているということだけで、美しいことだ。」と言っていて、今は、この言葉を大事に握りしめている。どうせ死んでしまうのに、と思うたびにこの言葉を反芻して、繰り返し繰り返し、絶望の淵から数センチこちらへ戻ってくるのだ。今はまだそれを繰り返すことしかできない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?