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記憶を見渡す

最近カウンセリングに行くようになった。会社が用意してくれている制度で、私は既に数回利用している。誰かに何かを話すというのも、そこに正解を期待しないというのも、不思議な体験である。オチのない話に打たれる相槌に、どう反応すればいいのかも分からず決まりなく微笑みながらいつもそそくさと部屋を出る。ただ数回も通っているのは、話しながら考えを整理するタイプだと自分のことを理解しているからだと思う。そして、普段黙ってひとり頭の中で考えたことを披露する場もないので、私の思考披露の場となっている。自慢げに話しているのだろう。

過去について話すとき、こうして掘り起こすことが意味のある作業なのかと考える。

「どうしてそんなにいつも楽しそうなの?」と、泣いている姉を見つけたときに言われた。そうだ。どうして私は楽しそうにしていたのだろう。あの頃の私は、姉が泣いている理由を知らなかったからだろうか。

たらればを考えてもしょうがない。その時のベストの結果が現在であり、あの日の私の答えが重要であったかなんて誰にも分からないのである。ただあの瞬間が、幼少期と今日との境目だ。私に妹がいたら、同じように聞いたかもしれない。どうして楽しくなくなってしまったのだろう。美味しいものを食べても服を買っても、私に付きまとうのは悲しみばかりなのだ。何かを埋めようとした行為で、反対にその何かをより損なっていく。このまま人生は、損なうばかりなのだろうか。
最後に損なわずにいられたのは、やはりその記憶の頃かもしれない。

誰かに話をする時、抽象的なことを具体的で現実的なものに変える作業を行う。一人で落ち込んでいる時が黒いグルグルで塗りつぶされた塊だとしたら、人に話す時にはきちんと線がある。線にして話す。人と話すことは逃げ道をなくすことだ。黒いグルグルで終わらせないのだから。悲しみから出発する人のすることだから。私は偉い。勇敢だ。ねえ、だけど、言葉なんかに頼ってしまっていいのだろうか。







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