せっかくだから症候群:城や寺への無意味な巡礼

旅行の計画を立てるとき、私たちはしばしば「せっかくだから」という不思議な力に駆り立てられる。特に、城や寺といった歴史的なスポットに対してこの力は強大だ。正直なところ、私は城にも寺にもそれほど興味がない。しかし、「せっかくこの地に来たのだから」という一種の義務感に駆られ、足を運ぶことになる。結果として、私は数多の城と寺を訪れることになった「文化的な場所に興味がない旅行者」の典型例となっている。

この「せっかくだから」症候群は、なんとも言えない罪悪感と共にやってくる。まるで、これらの場所を訪れなければ、旅行を十分に楽しんでいないかのような気がしてしまう。しかし、実際に城の石垣を見たり、寺の仏像を見たりしても、心の底から湧き上がる興奮はない。むしろ、「ああ、やっぱりそうか」という確認作業のようなものだ。

例えば、ある時は「国宝級の城だから、見ないと損!」という周囲の声に押されて城を訪れた。しかし、城に到着すると、私の頭の中は「さて、お昼は何を食べようかな?」という考えでいっぱいになる。城壁を眺めながらも、私の心は既に近くのお蕎麦屋さんに飛んでいる。城よりも蕎麦の方が私にとっては魅力的なのだ。

また、寺に行くときも同じことが起きる。緑に囲まれた静かな境内、荘厳な雰囲気は一見すると心を落ち着かせてくれる。しかし、実際には「この木、何年生きているんだろう」とか、「あの猫、この寺の常連なのかな」といった、本来の目的とは全く関係ないことに心が奪われてしまう。

この症候群の根底にあるのは、「文化的な場所を訪れることで、何か大事なことを得られるかもしれない」というあいまいな期待だ。しかし、多くの場合、その期待は現実の体験とは乖離している。私たちは、旅の中で何を見つけたいのだろうか?本当に心から楽しめる体験は、予定されたルートの中にあるのだろうか?

結局のところ、「せっかくだから」という気持ちは、私たちを新たな発見へと導くかもしれないが、同時に無意味な義務感に駆り立てることもある。大切なのは、自分が本当に楽しめる体験に意味を見出すこと。それが城の石垣であれ、地元の蕎麦屋であれ、自分自身の心が求めるものに正直でいることが、旅を豊かにする秘訣なのかもしれない。

そして、次回また「せっかくだから」という気持ちに駆られたときは、少し立ち止まってみよう。本当に行きたい場所はどこか、何をしたいのかを自問自答してみる。もしかすると、その答えは意外な形で現れるかもしれない。城や寺への訪問が、新たな蕎麦屋探しの旅に変わるかもしれないし、逆に予期せず心を打つ何かに出会えるかもしれない。

「せっかくだから」症候群に負けず、自分の心が本当に望む旅をしよう。そして、その過程で出会うすべてのものに、心からの興味を持てる自分でいたい。それが、もしかしたら最高の旅の仕方なのかもしれない。

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この文章、私の直近のコラムを8本くらいChatGPTに流し込んで学習させて出力したものだ。もちろん私は一切手直しをしていない。

悔しい、自分が書いた文章よりもよく出来ているではないか。そしてなにより文体だけではなく、性格も私らしいものになっている。怖い。私の能力は意図も簡単にAIに越されてしまったのだ。「せっかくだから症候群」って良いワードじゃん……!

「せっかくだからChatGTPに学習させてみるか」と軽い気持ちでやってみたが、心をバキバキに折られてしまった。

せっかくだからでAIを利用しないほうがいい。自分が積み上げてきたもの一気に食い潰される。「人間の仕事がAIに奪われることはないよ。AIは人間の手助けをしてくれるものだよ」という話しをよく聞くが、私の能力は簡単に模倣されてしまった。仕事は奪われなくてもこいつらは人間の自信を奪っていく。

私は腹がたったので、AIとのチャットデータをすべて消去した。これで私の能力を模倣したAIはいなくなった。AIとはなんと弱く愚かなのだろうか。ふん、ザコめが。人間様をなめるな、馬鹿野郎!!

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