ものは言いよう、ゴリラは無理だよう

ちょっとした言い方でものごとはガラッと変わるし、相手への印象がぐっと良くなる。

例えば、誰かの意見に返答するときに、「いや、それは〇〇だよね」と否定から入ってしまうと、相手はウッと心にダメージを受けてしまう。しかし、最初に「それはいいね。あとは〇〇があれば〜」と褒めから入ることで、アドバイスも気持ちの良いものになる。素晴らしき世界。美しい。

私はこの言い換えが非常に苦手である。私にとって議論と言うものは、幕の内一歩の殴り合いのように、泥臭く感情をぶつけ合うデンプシーロールの連発だと思っている。「相手を潰してなんぼのもんじゃい!!!」とブルドーザーのように意見という草木を押しつぶし、俺の俺による俺のための独裁的な近代国家を作り上げる。脳筋ゴリラ大統領の誕生である。

こういった考えが根底にあるので、私は柔軟に対応してネガティブをポジティブに言い換えられる人を尊敬している。肯定から入れるひとはえらい。人の心がわかる優しい人だ。一方で私は大人になってもずっと「オレ、ヒト、ワカラナイ」とフランケンのように、コミュニケーションの夜を今日も彷徨っている。

しかし、そんな優しい人を尊敬する反面で、やはり私の心の中には、「口論してきたものはすべて叩き潰すのが正義。今は負けてもいずれは貴様を負かす」というムキムキのアーノルドシュワルツェネッガーが住んでいる。いつでもI'll be backで相手を叩き潰そうと構えている。ゴリラ シュワルツ フランケン ネッガーというゆとり教育が生んだキメラこそが私なのである。

そんな私がついこの前、録画していたフジテレビのノンフィクションを見ていたときに、心の中のターミネーターが反応する瞬間があった。「いやいや、言葉の変換だけではカバーしきれないだろ……」となったのである。

そのときのノンフィクションの内容は以下の通りである。

  • 上京してきた20歳の若者が、厳しいシェフのケーキ屋に就職

  • ものすごく厳しいので怒られることもしばしば

  • 30歳の優しい先輩がいる。たまにご飯に連れていってもらっていて仲が良い

  • シェフの厳しさに若者たちがどう対応していくのか?が見どころ

必要な部分だけを抜き出せばこんな感じ。このケーキ屋のシェフがとにかく厳しく、背中で語るタイプの職人なのである。その厳しさに若者たちがどう関わっていくのかが番組の肝だ。

さて、その番組内で私が引っかかったのが、若者と先輩が2人でご飯に行くシーンである。2人は10歳ほど離れているが、厨房の厳格な雰囲気と違って和気あいあいとした空気感が漂っていた。

しかし、その和気あいあいとした空気とは逆に、先輩の言葉がとにかく直球でおもしろかったのだ。「あとでシェフが見てもいいの?怒られない?」って心配になるくらい包み隠さずシェフに対して軽口を叩くのである。(もちろん長年の関係性があってのことだと思うが)

■お店を探すシーンでの会話
「このお店にするか。店内にシェフいないよね?」
「仕事終わってまで一緒に食事したくないからね」

■ご飯を食べたあとの会話
「いやでも、60歳であそこまで働けるのすごいですよね」
「体力がやばい」
「あの人、人間というよりDNAがゴリラに近いからね」

という感じなのだ。いくら仕事が終わってからのプライベートとは言え、テレビ放送されているのである。ゴリラと言ったことがシェフに直接届くのだ。ケーキはフィルムでキレイにラッピングする癖に、言葉は顔面パイのように豪速球でぶつけにいくのだ。シェフよりも先輩の精神力のほうがよっぽどゴリラである。

とは言え、出演している二人はあくまでテレビの素人だ。慣れない撮影でリップサービスとして大げさに軽口を叩いてしまった可能性もある。テレビマンがなにか誘導するようなことを言ったのかもしれない。

ここで重要になってくるのが、ナレーションだ。なにを言うのかで番組への印象がガラッと変わる。ノンフィクションはナレーションも特徴の一つで、これによって視聴者がより番組内の出演者に共感することができる。そのセリフによっては、「ゴリラ」というシェフへの悪口ともとれるワードを褒め言葉に変換することができるかもしれない。ケーキのデコレーションのように美しく彩ることができるのだ。

さあ、長年やってきたフジテレビよ、どう調理する?と構えてテレビを見ていたら、

「なんだかんだ言って、シェフは慕われているんです」

という明らかにシェフを守りきれていない言葉が空中を舞っていった。「ゴリラ」という重いワードを、「慕う」という歩兵では支えることができない。ゴリラが軽々とナレーションの言葉を吹き飛ばしていく。

あれ?聞き間違いかな?と思って、もう一度同じ箇所を巻き戻してみたが、「なんだかんだ言って、シェフは慕われているんです」と同じセリフが流れただけだった。I'll be back。シェフはゴリラのDNAを携えたまま、番組は終了していった。


やはり、言葉の変換というのは限界がある。あの名番組のノンフィクションでさえ、ゴリラというワードをポジティブに変換するのは無理なのだ。

言葉の言い換えというのはあくまで見せかけているだけであって、真意は変化していない。ゴリラはゴリラだ。ゴリラはどこまでもゴリラであり、先輩がゴリラの話をしていたことは撤回できない。シェフのDNAはゴリラという真実だけがデータとして永遠に残ってしまったのだ。

もちろんコミュニケーションのために、言葉を変換するのは大事なことである。ただ、それだけに頼るものではない。自分の本意をぶつけることも時に重要ではないだろうか。幕の内一歩のように泥臭く、右拳のストレートで戦う意志を見せることも必要だ。他人の心などわからなくてもいい。フランケンはフランケンとして生まれたのであれば、ありのままを受け入れてもらえるように努力すべきなのである。

ケーキのように美しい議論もときにはすべきだろう。ただ、私はやはりこのまま筋骨隆々なアーノルドシュワルツネッガーを心に宿していきたい。ダダンダンダダンというターミネーターの音を鳴らしながら、独裁主義な脳筋ゴリラ大統領として君臨していきたいと思う。


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