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離したくない

 オーイ、オーイィ、オーイ……
 夢うつつのあわいのなかで、どこか遠くからの呼び声が聞こえていた。まだ半分は寝ている。徐々に覚醒していくにしたがって、強引に起こされているという不機嫌が膨らんでいく。この不快なまどろみの時間はしかし、心臓の縮みあがるような衝撃で切り裂かれた。なにがなんだかわからなくなった。両方の二の腕に、唐突に、凄まじい圧迫感を、感じたのだ。痛いでも熱いでもない。感覚を示す言葉をあてはめる余裕すらも許してくれないような、ただただ強い衝撃。ベッドフレームに工場機械を使って圧着されているような、あるいは、両腕を万力で締められているような。
 パニックになりながら目を開く。ベッドから引き剥がすように全身をよじるのだが、体はうまく動かない。ほんとうに体をベッドに縛り付けられている可能性が頭をよぎる。首だけ左右に振って、自分の身に何が起こっているか確かめる。二の腕には、熱いもので縛られているような感覚がある。暴れたおかげで、体にかけていたタオルケットがはねあがり、ベッドから半分落ちていった。それで、自分の上半身が見えるようになった。Tシャツから突き出た二の腕が見えた。その形状が気持ち悪かった。
 両方の二の腕が、奇妙なかたちに盛り上がっているのだ。二の腕の中央部がぼこぼこと醜く膨らんでいて、熱と圧力の原因になっているらしい。息が詰まり、頭が真っ白になる。生唾を飲み込む。とにかく落ち着かなくては。そう自分に言い聞かせる。泣きそうだ。そのままの体勢で、まずおそるおそる指を曲げてみる。指は曲がる。手首に力を込める。手首も動く。肘も曲がりそうだ。おそらくそうだろう。ただし、へんな形になっている二の腕はびくともしない。二の腕にだけおそろしい重さのものを巻きつけられてでもいるようで、まったく太刀打ちできない。吐き気を抑えつけつつ、慎重に肘を曲げた。不思議と痛みは感じない。左手で右の二の腕を、右手で左の二の腕を触診する。指で二の腕の膨らみを撫でる。すると、なんのかたちなのかすぐにわかった。それは手のかたちだった。
 握りこぶしだった。二の腕の皮膚の下に、誰かの手がある。誰かの手が腕の内側にはいりこんで、そいつが両腕の骨を握りしめている。どういうことなのかはわからない。ともかく、どう触ってもその形は手だった。確信してから眺めたら、たしかに二の腕の肉の盛り上がりは握りこぶしの形をしていた。わけがわからないし、どうすればいいかもわからないし、そんな二の腕は重すぎて動かない。切迫感のなか、気を失うように再び眠りについた。いや、ほんとうに気を失ったのかもしれない。なにせ覚えてない。
 次に起きたときには何事もなく、腕にもなんの痕も残っていない。それでも安心感は得られなかった。悪い夢の生々しい感触が現実にまで響くひどく不快な朝。深い動揺は体に残り、すべての動作はおそるおそるの、びくついたものになっていたし、膝はいつまでも細かく震えていた。平静を装って出勤したが、体調でも悪いのかと心配される。寝不足だと答える。それは心配だなあ、大丈夫か? 気遣われて驚いた。いつもの調子なら、自己管理がなってないと叱りつけるだろう部長がおとなしい。よっぽど異様な憔悴の表情を浮かべているのかもしれなかった。
 けれど朝礼と軽い打ち合わせが済んで、またいつもの業務がはじまれば、寝起きのことなんて忘れてしまえるのだった。
 帰宅して、夜のことを終えてから横になる。しばらくして電気を消し、疲れた体をなぐさめる。不愉快な寝起きのことはまったく思い返さなかった。思い返さずにすんだ。ところが、その次の朝。
 悪い夢も見ず、へんに不快な段階を経た覚醒も体験せず、いつもどおりに目が覚めた。目をしばたかせ、肩に力を込めたり力を抜いたり、背筋を伸ばしたり、ストレッチじみたもぞもぞ動きを動く。その一連のなかで目をこすった。そのときだった。尋常でない異臭に襲われた。反射的に激しくえづいてしまう。なんのにおいなのかわからないが、とにかくひどくくさい。鼻の粘膜から体内に侵入した臭気に対し、内臓全体が勝手に激しく収縮し、全身が雑巾みたく絞られるようだ。舌の根が喉の奥めがけぎゅっと引きつり、震える胃は体の外へ飛び出ようとする。声にならない声をあがく。おそるおそる、再び顔に手を近づけると、それがひどいにおいの正体だ。心して嗅いだところでえづいてしまうのは、生理的な反応なのだから仕方ない。目をすがめて指先を見れば、爪の間になにかひきつれた肉色のものが挟まっており、これが悪臭の原因らしかった。汚れものをつまんで持つときのように、なるべく指先を自分の顔から遠ざける体勢で洗面台まで行き、両手をよく洗う。爪のなかからは、噛んで吐いた肉のようなものが落ちてきて、このにおいがたまらない。腐臭とも異なるが、似ているようでもある。じゅくじゅくしてまろやかな鼻ざわりのなかに、突き刺さるような刺激が大量に用意されている。
 何度も洗い、何度も石鹸をつけなおし、何度も指先を嗅いで、その作業に一生懸命になっていたら時間はあっという間だった。家を出なければならない時間ギリギリになっていた。つける間のなかった整髪剤を容器ごとカバンにいれ、走りながら靴の履き心地を確かめる。駅を目指す道で改めて、爪に挟まっていたものがなんなのかを確実にわかりたいという思いにぶちあたる。体はどこも痛まない。それが気色悪い。たとえば踵の皮のように、少しばかりえぐれてもそう痛まない鈍感な部分を、寝ているときにむしったのかもしれない。たとえば寝ている最中に、ムカデだとかの生き物を、爪をたてて叩き殺していたのかもしれない。爪に挟まっていたものがなんだったのか不確かなままでいることが悔しく、気持ち悪かった。動揺もまだ残っている。朝からネガティブな気分に満たされていた。急いでもいるが、定期入れをポケットから取り出すのさえうまくいかない。改札口でもたついて、電車を一便、乗り逃した。
 到着駅でも定期券を取り出すのに手こずって、震えているわけでもないのに、朝からずっとものをつかむことがうまくいかない。指先のことを気にしすぎて、動きにへんな力がこもっているのかもしれない。そう意識すれば、いよいようまく動けないように感じられてくる。まるで、自分の肩から、他人の腕が生えているような。コップを倒しかけるし、ダブルクリックがうまく通じない。書類を何度も取り落す。
 書類を何度も取り落せば、他人の目をひくことになる。むけられる視線は、目障りな行動を視線で諫めるつもりのものか、それとも心配のこめられたものか。いろいろな目が手元を監視してくる。と、そんな視線をよこすひとりが、なにかに気づいて急におおきな声をあげた。説明はしてくれない。困惑の表情で数秒、口を開けたまま、かたまってしまう。目を見開き、停止し、一瞬ののち、また同じ声をあげる。
「ええっ?」
 その視線の行き先へ、こちらもこわごわ目を滑らせる。

 へんだ。改めて眺めると、手がへんだ。指が短い。異臭を発していた今朝よりも、明らかに短い。ほかの部分、手のひらや手首、腕も体も、おおきさに変化はない。あるはずがない。なのに指だけ、なんの痛みも違和感も感覚しないうちに、見慣れたプロポーションからはずれている。いつもの三分の二ほどの短さになっている。午前中かけて両手の指が縮んできたということか? その場に居合わせた人々も、ひとり、またひとり、と、こちらの手元にまなざしを突き刺す。誰もなにも発さないでいて、そこに充満するのは静寂でも沈黙でもなかった。ぎょっとしている表情を互いに見せあうばかり。誰一人として、どうすればいいかわからない。立ち尽くす体の中を貫く、鼓動の力強さがやけにリアルだ。
 ようやく誰かが、
「救急車か? 救急車? とりあえず救急車呼ぶか? 救急車だよね?」
誰かに許可を乞うように繰り返すが、それを呼ぶ電話はうまく症状を伝えられない。

 救急車がきた。
 顔色は悪いものの、どこも痛くないし熱もない。しかしとにかく、車内中央の担架台に横にさせられた。救急隊員の口調、態度は事務的で、その厳しさがかえってこちらの動揺を慰める。しかし、決められたひととおりの基本的な質問や検査、測定がすむと、それから先、容態を知るための糸口が見つからないのか、靴下やズボンまで脱がされ、ほかに異常がないのかをしつこく点検される。意識ははっきりしているから恥ずかしい。というか気まずい。自然と体はこわばってしまって、力を込めて目をつぶる。余計なパニックを起こさぬよう、深呼吸をして、念じるように深呼吸の回数を数えることに努める。決壊の寸前にいた。とにかく、深呼吸に集中するんだ。
 緊張が続いているときにそんなことをしたせいなのか、気づかぬうちにすっと入眠していたようだった。入眠というより、失神に近いのかもしれないが、なにせ覚えてない。

 目が覚めてもまだ救急車のなかだった。つまり、おおきなワゴン車に寝ている状態なわけだ。誰の姿も見えない。すぐそばにいたはずの救急隊員の姿もない。無線の声すら聞こえない。ただ車の走る音だけがある。失神する前に救急車に乗っていたことを思い出すのに時間がかかった。しかし思い出してもなお、ここが救急車である感じがしない。体は担架に固定されている。足首と膝と太ももと腰と手首と肘と肩にベルトが巻かれている。まったく起き上がれない。それどころか、体をほとんど動かせない。目に見える範囲には誰もおらず、車の走る音しか聞こえない。窓はないから外の景色はわからない。フロントガラスを通過してやってきている光の具合にしか、外の様子のヒントはない。その感じだと、どうやら夜だった。この車の外に町がひろがっているような感じはしない。むしろまるで、山の中を走っているような。街の音や気配もなにもない。乗せられたのは昼だった。これは何時間走っているのか。どこにいるのか。膝が細かく震えはじめる。
 けれど車は進んでいるのだから、首を動かしてもうまく見られない場所に、運転手は、せめて運転手だけはいるはずなのだ。目の端で運転手を探したい。首に必死で力をいれるが、固定された頭部はわずかにしか動かず、運転席を視界にいれられない。それから急に思い出して、見ようとする方向を変える。顎をひき、眼球の向きにも力を込める。自分の手を見る。手の甲から生えている肉の芽はいまや三センチほどだろうか。指はきちんと短くなっているのだ。目でそのことを確認した瞬間に嗚咽がやってきた。悲しかった。わからなかった。わけがわからない。
 幽霊のようなか細い震え声で、運転手に呼びかける。本当なら、助けを求める声をしっかり叫びたいが、力がうまく入らなくて、弱い声しか出せないのだ。歯がゆかった。悔しかった。オーイ、オーイィ、オーイ。声のおおきさは充分ではない。声をあげてどうなるというのでもない。言うべき言葉も知らない。ただ、この声をあげなければさもなくば死ぬ、という切迫のなかで繰り返す。オーイ、オーイィ、オーイ。救急車はただ、周囲になんの気配もない静かな夜のなかを走っていく。


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