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「末裔」

 はじめて十六歳になってからもう八十年になります。いまも十六歳のままです。八十年のあいだには、それはそれはたくさんのことがありました。十六歳の体におさめておくには、あまりにもたくさんのことがありました。それでも私の体は十六歳のまま、心は、心はどうなんでしょうか。心はそもそも、歳をとるようなものなんでしょうか。当然、十年前、三十年前、五十年前の私を思い出して比較してみれば、今の私とまったく同じではありません。昔のほうが諦めが悪く、我が我がといった気分に襲われることも多かったような気もします。けれども、そういった性向が弱まっていったことは単に生活上の不便を避けることに熟達していったというだけのような気もいたします。心は老いていくものなのでしょうか。体が衰えない以上、私には判断が容易ではありません。ともかく、見た目には少年であっても、私には九十六年分の経験があるのです。器質的にいかに若々しい脳を持っているとしても、そこには九十六年分の出来事が刻まれています。
 ヴァンパイアの家系だから、いつか成長が止まり、それから二、三百年は生きるだろうと、幼い頃から父にはそう教えられてきました。父は寄宿学校の使用人として働いていて、私はその学校の生徒でもありましたから、少年時代は使用人の部屋と教室とを行き来するばかりの、あまりにも狭い生活圏のなか過ごしておりました。
 けれども、父もまた似たような少年時代でありました。ヴァンパイアの血が混ざって以来、私たちの一族は代々、そのように成長したものです。わが一族は寺院や屋敷など、由緒のある場所で使用人として暮らしていくことを生業としていたからです。献身の日々を重ねることで、数千年前に起きたなにかの間違いによる呪いが薄まっていくと信じているのです。
 私たちは使用人として二世紀ほど働きます。その結果、その場所に関して、真っ当な寿命を持った人間にはありえない熟達度を身につけるわけです。ですので、日常の維持にかかわるあらゆる些事を完璧にコントロールできるようになり、その場所にとってなくてはならない存在となります。その屋敷なりなんなりの、象徴的な存在となるわけです。いつか死ぬときには祝福を受けます。一族の者がようやく死ぬときにはたいてい、その寺院や屋敷もまた、惜しまれながら没落するのが常だったと伝え聞いてはおります。名誉な伝説ではあります。

 寄宿学校のなかでも、私たちの家系について知っている人間はほんの一握りでした。私が生徒として教室に加わっていることへの配慮も理由の一つで、従って旧友たちは誰も、なにも知りません。知っているのはただ寄宿学校の主人、それから主人との関係の浅からぬ数人のみでありました。
 私の父が使用人として雇われる以前、寄宿学校は僧院の事業のひとつだったと聞きます。しかし存続は危ぶまれていたようです。そこに、身分の高い、敬虔な篤志家が積極的な支援をしました。寺院のほうは名残をかろうじてとどめるほどの規模で持ちこたえるにいたり、一方で寄宿学校はおおきくなりました。この篤志家の家系が代々の理事校長を引き継いでいるのでした。国内外の上流階級の子息たちがやってくる、といって間違いではありませんが、筋金入りの上流階級の者はもっと高名な学校、あるいは家庭教師と社交界によって教育を施されますから、わが寄宿学校にやってくるのは貴族ぶりたい連中の子供たち、あるいは単に財産のある家庭に厄介払いされた子供たちでした。
 とはいえ主人らの矜持はなかなかのもので、ときおり倫理や理想を同じくする親類縁者らがやってきては、教育や政治について熱心に語り合うのでした。私は使用人の息子でありますから、その場にめぐりあわすことも一度や二度ではありません。私が、あのお方をお見かけしたのは、そんな折のことでした。人数分の茶器を運ぶよう命じられ、父について部屋に立ち入ったときです。輪のはずれにそっと佇んで、真剣な表情で議論に耳を傾けるその方は主人の従姉妹にあたる令嬢で、私は危うく、茶器を取り落とすところでした。
 寄宿学校の幼年時代に、皆で山に登ったことがあります。休憩がてら、山中に流れる天然の滝を眺めているとき、なんの前触れもなく、それまで流れ込んできた水とはまったくつながりの見出せない量と勢いの水が、岩を砕くかのような凄まじさで吹き出してきたことがあります。あれは鉄砲水といって、非常に危険ではあるが、見る価値のあるものを目撃できたと、教師はまるで自分の手柄であるかのように得意げに説明したものでしたが、はじめてあの方をお見かけしたとき、私の胸のなかに沸き起こった感情の奔流とは、まさしくあの鉄砲水のごときものでありました。いいえ、はじめてのときだけではありません。その後も、お見かけするたび、あまりの感激に体はわななき、ぼうっと熱を帯びるのでした。
 あの方は、会合の参加者のなかでは最も年若く、聞くところによると、向学心のため、議論への参加を自ら望まれて来訪されているとのことでした。茶器の運搬は毎回の手伝いでしたから、私は週末がくるたび、今日こそ教育や政治の談義が開催されないものかと落ち着きを失い、鏡で自らの髪型や服の乱れを気にするようになったものでした。
 ところで、われわれの一族には、使用人としての数世紀の勤務のほかに、もうひとつのならわしがございます。呪われた血を慰めるため、そして、生まれ育った土地での面識を洗い流すために、成長が止まって数年ののち、数十年かけて旅をするのです。十六歳になってから三年、私にもそのときが近づいておりました。
 その頃の私にはひそかな願いがありました。毎回、会合に出席しては、しかし耳を傾けるだけで意見を述べられることのないあの方の声を、一度でいいから聞いてみたい。声を知らずに出立することだけはどうしても避けたかったのです。もし茶器を取りこぼし、あるいはあの方の衣服に茶をひっかけるようなことがあったら、そのときにはきっと声をおあげになるだろう。いつしか私の頭には、そのような考えが浮かぶようになっておりました。
 そのような行為によって、自分が嫌われてしまうだろうことや、あの方に嫌な思いをさせることになるだろうことも考えつきはするのですが、わざと茶をこぼしてみたい、そうしたらどうなるだろうかという想像の魅力はとても強く、体のなかで、その想像ばかりが膨らんでおりました。このような身勝手さ、自分の想像力の身勝手さからやってくる自己嫌悪に、ずいぶん苦しめられたものです。妄想はそれだけではありません。出立し、数年の遍歴を経、やがて帰国したあかつきには、あの方のもとにお仕えする、という夢物語を胸の内に繰り返し描いていたのでした。このお話の冒頭とは食い違うようですが、そんな甘い夢を見ていたのは、心が若かったからなのかもしれません。
 さてその頃、世間の流れには、おおきな変化が兆しておりました。遠くの国ではありましたが、為政階級の立場に対し、人民の側から激しい抵抗運動があり、わが寄宿学校の生徒たちの家庭には明らかに動揺が広がっていたようです。連綿と続いてきて、これからも続いていくだろうと思われていたものが崩れる事態が明らかに多くなり、上流の家庭にはひそやかな不安感が、それ以下の生活人たちのあいだには、獰猛な野心がひたひたとせりあがってきておりました。私の遍歴の旅の途中、万が一、あの方の家が没落するようなことがあれば、あの方の邸で使用人となる妄念が成立しなくなるどころか、あの方自身の身が案じられます。私は、私自身の情欲でねじくれた祈りを根拠とした向学心で、世間をみてやろうと考えておりました。
 そしてついに、あの方がついに自分から議論に口を挟み、その声を発された瞬間に立ち会うこととなったのです。私は出立の時期を延期させる、私自身に対する言い訳を失ったのでした。

 私は給仕見習いになりました。給仕長の仕事を目で盗みながらさまざまなお客の様子を観察します。熟練の給仕長は、お客がどこからきた人で、ならばどのような味付けを好む傾向があるのかを即座に見抜くことができました。その頃はまだ、旅行やホテルというのがいまほどは一般的ではありませんでしたから、従ってわれわれのもとへやってくるお客のほとんどはそうとうな財産家ばかりなのでした。私はそのような人々の前での振る舞いを徹底的に叩き込まれ、教育は生易しいものではありませんでした。はじめて触れた外の世界の厳しさに、今後二世紀を生きていく自信は完膚なきまでに破砕されてしまい、どこかに連れ出してくれるようなお客があらわれるならば、夜逃げのようにすぐに出ていこうとの決心を日毎に太らせていったのです。私は毎日のように、あの日耳にした、清澄で軽やかな声を思い返し、それだけを杖にして厳しい修行に耐えていました。私のなかで、あの方の声は一滴の強い毒のように深く広がり染みついて、思い返すたび、花の咲く場面が浮かぶので、花が咲くときには、きっとあの方の声のような音が漏れるのだろうと自然にそう信じるようにすらなっておりました。
 サーカスの一座の座長が地元の有志らと会食をする日、私は外で、座長が賑やかしに引き連れてきた猛禽の相手をするよう、突然そう命じられました。これ以上ないほど醜く、悪魔のような風貌をした猛禽は貪婪な光を瞳に宿しており、ほかの生物の命を奪うためだけにある爪や嘴は、鋭く磨かれた鑿のようでありました。
 そこで驚くべきことが起こりました。この猛禽は私を前にすると、じっとおとなしく、行儀よく振舞ったのです。私に流れている呪われた血筋を感じとったためであると、私は直感しました。定められた餌を食べると目を閉じてしまいましたが、私にはそれが眠りのポーズでしかなく、ほんとうには眠っていないことがわかるのでした。動物は本能的に私をおそれ、従順になるらしいことに気がついたのです。
 そしてそのことに、サーカスの座長も気がついたのでした。会食後の座長は目を丸くして、私に宿る天賦の才に手を叩きました。こうして私は、座長が宣言することによって給仕見習いを堂々と辞し、猛獣使いとして、まさに諸国を遍歴することとなったのでした。
 私の天性の能力はしかし、獣たちを威圧する以上の効果を発揮しませんでした。ですから、思い通りに動かしたり、あるいは彼らの機嫌を慮ったりすることにかけてはひとしなみの修行が必要でした。訓練に耐えながら、諸国をめぐりました。東から北、そしてさらに北上し、いずれ旋回するように巡業は西方向に動くようになり、ずっと西の端まで達すると今度は島を渡りつつ南下する、というように。気温や季節や環境の変わるなか、動物たちとは深い絆を取り結びましたが、なかには堪えきれず亡くなってしまう獣もおりました。方々でさまざまなものを見聞きし、またさまざまな人との出会いがありましたが、常に心ではあの方を想い続けておりました。お歳を召されていくあの方のおそばに、いつまでもいられたら。世間は相変わらず騒がしく、王が追放され、新しい船が作られて、成功した革命家たちは決まって腐敗していきました。
 サーカスの巡業範囲も時代とともに変化しているようでした。時代の趨勢を敏感に感じ取る座長は、団員をずいぶん勝手に雇ったり馘にして、大胆な切り盛りをしていましたが、猛獣使いには私と、私よりベテランの二人、あわせて三人のまま、そのまま七つか八つの冬を越えた頃でしょうか。もちろんいつだって、私は十六の姿のままですが。
 サーカスはようやく、私の生まれた町のそばにやってきました。私は父や寄宿学校よりなにより、あの方がどうされているのか、そればかりが気になって、かつて立ち聞いた覚えのある邸の場所へとひとり馬車を雇って向かいました。霧が出て寒い朝のことです。馭者は、私の注文する行き先に邸宅があったものかを訝しがりましたが、彼女の暮らした痕跡だけでもこの目で確認したい一心で、私は馭者をどやしつけました。馭者の語る土地の歴史は上の空、切々とした想いの息苦しさに耐えながら馬車に揺られておりました。ついに辿り着いた場所は、馭者のいったとおり、かつての邸宅が残骸のように残っているばかりで、人の気配とてなく、枯れ枝に巻きつかれた崩れた石壁が、人間よりもむしろヴァンパイアにこそふさわしいような雰囲気を飾っていました。
 次に私は、寄宿学校を訪ねました。知った顔も十年以上の年月を経たぶん、太ったり痩せたり、眼鏡をかけたり髪の毛が薄くなっていましたが、父だけはあの頃のまま、百十余年目の三十四歳のまま、もちろん私の見た目も十六歳のままです。久しぶりの親子の再会でも、お互いの見た目に変化がまったくみられないことは、くすぐったいような笑いを誘いました。長年の勤務の賜物というだけではなく、家系の血について周囲に隠し立てしないようになったためか、父の振る舞いの気楽さは見たことのないほど甚だしいのでした。
 サーカスの一座にはまだなにも相談していませんでしたが、私はこの機に一座を辞す心づもりでありました。父にはずいぶん細かな相談をもちかけたものです。使用人としてどこかの屋敷に雇われるという段取りをどうつけるべきなのか。まったく見ず知らずの場所に受け入れられることはまずありえないが、この寄宿学校の主人を経由した家系であればとりはからえるだろうとの言葉に私はいたく安心したものです。また、あの方のご家族についての話も引き出しました。土地争いや世継ぎの選別のため、より大きな分家へと引っ越したらしく、その屋敷の場所は寄宿学校の土地とはかなり離れているとのことでしたが、とにもかくにも、不幸なく同国内でお過ごしになられていることがわかり、やはりこれにもおおきく安心したものです。
 サーカスの滞在する半月ほどは、私の人生のなかで特筆すべき緊張の期間でありました。時間の制限がありますし、どう算段したところでうまくいくかはわかりません。それに仮に使用人の職を得たとて、あの方とお近づきになれるかはまた別の話です。しかし一念発起し、やってみるだけのことをやろうと心に決めました。そのためには手段を選んでいられないような目標は私を熱中させました。
 ところで使用人というものには、仕えている場所への強いこだわり、強い愛情があります。それに、雇う側にしてもむやみやたらに人をいれているわけではありません。つまり、私にはまず、先代を穏便に辞めさせる必要があったということです。直接の説得ではまず無理ですし、足跡がついてしまいます。私には政治的な力はありませんから、どうしても暗く処理する必要がありました。そこで役に立ったのが、猛獣たちの、私の血に委縮しておとなしくなるという性質、および、サーカスで培った、猛獣たちを手懐ける技術でした。
 さて、生まれ故郷にやってきた団員が、急遽サーカスを去ることは珍しくありません。もちろん、引き止められます。けれど最後には時間がきてしまうのです。一座は次の場所に行かなければならないのです。私は父の手ぐすねのみならず、使えるものはなんでも利用してやる気でしたから、サーカスの座長に紹介状を書かせました。私自らが考えた文面です。給仕見習いとしてよく気がつく、とても頭のいい子で、サーカスの手伝いもしてもらった。ぜひこの子の前途が、彼の思う仕事で過ごせるように、何卒はからってやってくれ。それは人の好奇心をそそる紹介状でした。紹介状を書きあげさせ、それを手にした途端、私は態度を変え、座長には平謝りに平謝りを重ねましたが、ついに彼の口から解雇が申し渡され、これで私は晴れて自由の身となりました。

 不幸な死を遂げた使用人を悼む期間が終わるまで時期を見計らい、父と座長による紹介状を携え、私は屋敷を訪れました。それから先はとんとん拍子で、ようやく私はあの方と再会したのです。
 はじめてお見かけした頃よりも世慣れた物腰はしなやかで、控えめながら堂々とした佇まいもさることながら、それこそ使用人にいたるまでのすべての者に丁重で、完全な人間というのは周囲にこれほどまでに安心感をもたらすものなのか、と、私はあらためてその存在の価値に目を見張り、指先や耳の中まで、体の隅々までがあたたかさに満たされました。骨という骨が、震えながらじんわりとやわらかくなる感覚にほとほと感動しきったものです。
 朝はまだ少し暗いうちに起床します。馬丁や食事係はすでに働いています。使用人たち全員が起きているうちに集まって、その日の来客や外出について打ち合わせがてら、一緒に朝食を摂ります。この打ち合わせを執り行う上長を直接補佐するのが私の役目でありました。
 使用人のあいだでの連絡を管理する職務上、日中は忙しく動きまわるのですが、かんじんのあの方のお目にかかることは珍しく、また、そんな機会があったとて、すぐにその場を立ち去らねばならなくなります。同じ邸宅でいわば寝起きをともにしている、と、そう思い込むことは不可能ではありませんが、どうしようもなくもどかしく、近くにいるからこそ、憧れの方への思いは日に日に切迫していくのでした。
 同じ階級のほかの暮らしむきと比べれば、屋敷は必ずしも広大とはいえませんでした。山々にとりかこまれた立地のために、ずいぶんと静かで、ならばこそ、すみずみまで目を行き届かせていなければこの静けさが簡単に不気味さや孤立感を引き込んでしまう、そんな場所でありました。
 いろいろな邸宅を訪れあい、社交に追われて過ごしていると言ってしまえるとはいえ、この社交の内容は非常に真面目で、実際の事業を執り行っている人々との交流が主でした。主な関心は教育と産業で、これらについて考えるためには、最新の自然科学の知見を得ることが必要なのでした。そこで時折、当代きっての学者先生を邸へとご招待し、講演を行ってもらうのです。その時間はたいへん興味深く、また長時間にわたってあの方と同室にいられる点でも快く、学者先生たちのあいだでよい評判がたつよう、清掃から給仕にかけ、この日ばかりは特別に力をいれてもてなしたものでした。
 しかしそれも、入職して十年ほどですっかり変わってしまいました。時間は、私だけをよけるようにして流れていきます。邸宅の様子も、ちゃんとした人間である使用人たちの変化も、すべてあわせて、なにもかもが変化していきます。人の口から「いつまでも歳をとらないお前にはわからないだろうが」というような言葉が漏れることを、さみしく感じたものでしたが、しかしあの方だけはそのような言い方をなさいませんでした。もっともっと洞察に富んだお言葉を投げかけていただけるのでした。「いつまでも歳をとらないお前にはなにが見えているんだろうか。時が流れて、うまくいかないことが増えた人々はお前をうらやんで悪態を投げつけるだろう。お前のその胸の内を、しんから同情できる者は誰もいないのだ。それを思うと私は悲しい。しかしやはり私にだって、お前の絶対的な孤独がうらやましく思えるときもあるのだよ」
 時間が経つうちに、お話させていただくことも積み重なっていきましたし、特別な思い出も数え切れません。風に飛ばされた帽子を一緒に走って追いかけた午後や、庭の果樹を二人でこっそり食べた日のことは忘れようがありません。使用人の子供のいたずらを見とがめて、優しくたしなめたあと一緒に遊んでやっているお姿をお見掛けしたこともあります。いつまでもお慕いするつもりでしたし、おそらく私のほうが長く生きます。そのことがつらくてたまらない夜も数え切れません。
 入職してから四半世紀は経っておりました。十六歳になってからおおよそ三十五年経っており、あの方は五十を越えたころでしょう。年齢的なものなのか、眠れないと言って夜に起き出すことがありました。私はそのたびに、夜の散歩にご同行させていただきました。なにかと用件が生じるかもわかりませんし、話し相手も欲しい。そのようなご要望ではありましたが、言外にもうひとつの、しかしこれこそが重要な、ご同伴の理由がありました。ある噂のことです。
 そのころ、屋敷のみならず、周囲の地域一帯を、よからぬ噂が走りまわっておりました。私のようなものが申すのもおかしなことですが、なにやら魔物の影が忍び寄っていたのです。人間の皮膚を奪い、集めているという魔物による被害の報告がちらほらとありました。その正体は不明で、また神出鬼没であることから、私はあの方の警護のためにも、夜の散歩にご同行させていただいておったのです。
 それは夢のような日々でした。冷え切った清潔な闇のなか、あの方とふたりきりで、たわいもない話をしながら、広く静かな邸をめぐるのです。誰にも邪魔だてされることなく、あの方が眠たくなるまで、ただ歩き続けるのです。

 中庭に面したポーチを歩いていたときのことです。青い闇の中でそよぐ植樹の量感が、やけに暑苦しく感じられる夜でした。あの方はたしか、男兄弟というものについての自説を開陳され、そしてひと段落されたあたり。私は靴先の汚れを指摘されました。そんな細かなことなど、あとで手入れをすればよいものを、そのときの私は汚れを拭うためにしゃがみこんでしまったのです。その瞬間です。まさに一瞬のうちに、頭上になにかの気配が現れました。とても素早い、しかし重い影がじつに滑らかに現れたのです。目をあげたときにはもう、あの方は短い声をあげてふらついていました。見上げるあの方の肩から上は黒い翼に覆われていて、お顔が隠れていました。私は慌てて立ち上がります。手で殴るようにして追い払ったのは、じつにおそろしい相貌をした、巨大な醜い猛禽でした。その狂暴な鳥は、爪と嘴の先にあの方の皮膚や肉の一部をひらつかせたまま、いっさんに飛び去って行きました。
 声も出せないでいるあの方の顔や首はいまや真っ赤に染まっており、特に、強い嘴の一撃を受けてえぐれた首筋の穴は、詩人の唇のように生命をとめどなく湧出させます。はじめから止血を目論んだのか、そこまでの冷静な考えはなかったようにも思われますが、私は思わずあの方の体をかきいだき、そして首に湧いた泉へと唇を圧しつけました。それはなにより暖かく、やわらかな塩気を含んでいて、どこかチョコレートを思わせる滋味の気配のあるものでした。あの方の鼓動にあわせて噴き出る流れは勢いが激しく、舌先を傷口にぴったりあわせ、流血を押しとどめようとしても私は無力でした。ただ血液で口をいっぱいにし、体温に溺れながらも必死でそれを飲み下しておりました。腹を減らした赤子のように、窒息しながら、懸命に血を飲んでいました。目は自然とつむっておりました。
 全身がぬるぬるして、どんなに力を込めても抱きとめていられなくなるころには、噴出の勢いも弱まっていました。私は思わずあの方の体を滑らせ、取り落としてしまいました。目を開くと、そこには凄惨な状態のご遺体が横たわっておりました。膝が震えました。そして、嘔吐感が突き上がりました。
 皮膚が裏返ったかのように血液にまみれたあの方の上に、私は吐瀉物をぶちまけたのです。吐瀉物、といっても、もとはといえばそれはほかならぬあの方自身の血液だったのですが。あの方の体内を駆け巡っていた血液が、私の体内に流れ込み、私の臓器の内部で往復運動をしたそれが、元の持ち主の上に注がれるのです。私はその現場を見下ろしながら、打ち震えていました。しかしそれは、おぞましさによって震えていたのではありませんでした。それは明らかに快感でした。体の芯から湧き上がってくる、抗いがたい快感でした。理性では歯止めの効かないものでした。給仕するお茶を体にかけるといういつかの妄想が、極大化されたかたちで実現していました。十六の肉体を持つ私は、その光景を見下ろすだけで、思いがけず吐精していたのです。下着のなかの不快な粘り気は、私に対して明確に、自分に流れるどろどろとした呪われた血筋を思い出させました。

 私の証言したあの方の死因は、かねてから人々の口にのぼっていた魔物の正体と結びつけられました。凶悪な猛禽がそこいらを飛びまわっており、とても不幸なことに、あの方もその犠牲になられた。あの方のおそろしい急逝への嘆きに加え、あらたにはっきりとした形を持ち直した恐怖を抱き、人々はあからさまに動揺しておりました。もちろん私にしても同様です。しかし私の場合は人よりも負担はおおきかったのです。あの方への思慕の厚さ、すぐそばでお仕えしてきた時間の質と量、そしてそのご逝去の瞬間に居合わせ、なにもできなかった負い目、また、実際に現場を目撃し、体感しているために刻み込まれた生々しい記憶。これらは悲しみや寂しさではなく、まさしく傷でした。痛むのです。それから、私のなかに熾った黒い炎について咎める視線がひとつもないこと。これもまた、私を怯えさせました。痛む傷の内奥で、湧き立つようなものが人知れず起きあがり、膨らみはじめていました。

 あの葬儀の盛大さといったらありません。私も力を尽くし、お見送りをさせていただきました。寄宿学校の関係者や父とも久々に顔を合わせました。葬儀ですから、「顔を合わせた」という以上にお伝えするような出来事とてありませんが。

 かの猛禽は退治されたと聞きますが、獰猛な獣は世の中にいくらでもいるものです。邸では、あの方の死を受け、大型の狩猟犬を数匹、厳しく訓練をして、周囲を警戒させるようになりました。もちろんそれまでも番犬はおりましたが、それはあくまで強盗や敵対者を追い払うため、つまり人間に対しての備えでありました。新たな犬たちはそうではなく、どんな生き物であれ敷地にやってこようものなら容赦なく吼えたてる犬です。
 けれども、あまり意味はありませんでした。なぜならあの方の死の時期から、時代の趨勢もありましょう、邸は次第に傾いていったためです。またたくまに、一人また一人、訪問者は減り、集まりも減り、住まわれている方も別の屋敷へと移られ、五年経つころには、ただ抵当としての価値を下げすぎぬよう、ほんの数人の使用人がひそやかに管理するだけの別荘に成り下がってしまいました。ずいぶんと暇ができたものです。それはさみしく、退屈な日々でした。空き家にはあまりにも不釣り合いな狩猟犬たちの餌やりや機嫌とりにばかり予算と時間を注ぐような、むなしい日常になりつつあったのです。
 そこで私は、残された猟犬の一匹を特別に仕立てました。いまや忍ぶほどの人目とてありません。夜にその犬を連れて外出し、ひと気のない路地、逃げるようにして家へと急ぐ婦人を襲わせたのです。私は人間の血液を大量に浴び、たっぷりと飲みました。ごくりと飲み込むとき、弾力すら感じられそうな舌触りの、自分の口の中の温度よりも少しあたたかい、海水の味の液体が喉を通る気持ちよさは涙が出そうになるほどで、とてつもない興奮でくらくらした私は、そのときのこともあまり覚えていません。ただ、やはりどうしても、最終的には吐いてしまうのでした。
 血液を吐かずに飲み、すっかり消化してしまいたいのかというとはっきりしませんが、年齢や性別など、飲みやすい条件というものがあるのではないかとの探求心は明確に持っておりました。飲めるなら飲んでみたい、というよりも、飲めるものがあれば、そういった血液と出会えたとしたら、さらに新しい世界がひらけるのではないか。そういった心持ちです。十数年ほどの間、探求の炎は燃え続けました。たびたび試みたものです。そんな夜のほかは、最低限の人員で退屈な日常を維持する邸での日々でありました。このうちに犬も寿命を迎えていきますし、なによりこの年月における時代の変化、そのめまぐるしさはあまりにもおおきなものでした。物質的、技術的な発展もめざましく、政治的な構造の変転もまた極端に波立っておりました。邸はいよいよ落ちぶれてしまい、ついに出て行かねばならないときがやってきてしまったのです。
 最後の日、衣類や家財道具のなくなった部屋部屋はじめ、廊下や窓、燭台や鏡の裏に至るまで、すみずみまで磨き抜き、徹底的に掃除を行き届かせ、そしてわれわれは邸をあとにしました。最後に一目、外観を眺めるために振り返るのは、とても勇気のいることでありました。自分の足が地から離れていくような気がいたしました。身軽になったといえばそうでしょうが、心地のよい軽さではなく、それがなければ大地に立つことのできないほどの重要な重さ、自分の身に必要な質量までもが引き抜かれたようでした。

 そして私は、再び給仕人となったのです。
 お仕えする屋敷を新たに探すことも不可能ではありませんでしたが、気持ちがむかなかったのです。父を訪ね、斡旋してもらえる可能性のありそうな場所を調べました。父の手元には、われわれ一族に代々伝わる連絡帳があり、ここに、一族と懇意な血族についての情報が記されておるのです。なにせ外見は十六の少年でありますから、ちゃんとした人間と同じ地平で求職活動に挑んだって、ほんの駄賃稼ぎにしかならない雑用係が関の山です。こちらの寿命について了解済の相手にこそ、自らを売り込みうるわけです。そのような相手が誰であり、かつ、いまどこで、どのような事業を行なっているのか。それについての情報収集が記録されたのが、父の連絡帳であります。
 あせることはまったくありません。結局、懐かしの寄宿学校にはひと月以上も逗留したでしょうか。ところどころ改築の施された学校と、古くから変わらない制服の生徒たち。三十人ほどのクラスが五つ、休み時間にはクリケットで遊ぶ。
 ともかく、父との相談を経て、次の奉公先の目星がつきました。長らくぶりにたいへんな距離を移動して、人の流れの激しい都会へとやってきました。その頃にはホテルの数も増えつつありましたが、われわれの血族との関わりのある場所となれば、歴史や格式のうえで追随するもののない、まさに最良のものとなります。私もまた、邸での経験のためにすっかり優秀な給仕人に生まれ変わっておりました。案ずることのない道行きのうえ、新たな生活が始まります。

 先述しましたとおり、この十年ほどのあいだ、私はさまざまに探求を重ねておりました。乳児や童貞、病人や死体、肥満体型や妊婦など、老若男女を問わずさまざまな血液を試すことに成功していたのです。積み重ねによって、自分の欲望のかたちも、いまや明確にわかってまいりました。
 私は、ただ、口のなかを血液でいっぱいにさえできれば、それだけでこよなく幸福な、満たされた忘我の心持ちに至れるのです。口腔内に生暖かい血液が満ちることで私はいわば一種の痴呆状態に陥るわけですが、どうやらそれこそが快感のピークであるらしいということに、十年以上かけてようやく気がついたのでした。はじめて快感を知ったのが遅かったために、この新しい感覚についてきっちり整理するのに、やはりそれなりの時間が必要だった、ということでしょうか。
 もしも相変わらず同じ土地に留まっていたならば、あるいは結果は変わっていたかもしれません。けれども実際には私は生活の場を都会へと移しましたし、そしてそこは日夜たくさんの人々が行き交う地でありました。獲物には不自由しない一方、目撃される危険性も高く、また捜査員たちの腕前もそれなりのものでありましょう。
 そこで私は、殺人のためには必ず遠方まで移動していました。休暇のたび各地を転々と経めぐり、その旅先で行為に及んでいました。それなりに気を付けていたつもりではあったのです。そこに、私にとって追い風となる事態が起こりました。戦争がはじまったのです。
 これは私の欲望の歴史についてのみの「追い風」で、生活人としての状況は厳しくなります。路頭に迷うようなことはありませんでしたが、給仕技能を発揮する機会は狭められ、退屈な時間が増えます。それもまた一因だったのかもしれません。
 この戦争は、生活を営む老人や女子供を町々ごと焼き払おうという性質のものでした。兵士同士のみが、定められた場所で試合をするといった戦いではもはやありません。国の財産と人々の生活をいかに徹底的に台無しにするか、という戦いでした。都会とて例外ではありませんでした。国力が根っこから痛めつけられれば、誰かの助けがなければ起き上がれなくなる。そのとき、誇らしげな瞳で勝者は肩を貸すわけです。勝者の導きによって起き上がった敗者は、ひどい屈辱を味わうこととなりましょう。耐えられない屈辱です。耐えがたさは歪んだ解釈を産み落とします。戦中やかましく語っていたなにもかもを忘却の彼方へ葬って、別様の物語をあしらうようになるほどに。
 いや、この私が人間たちの政局に口を出そうなどとはあまりにでしゃばりすぎたかもしれません。話を、私の物語へと戻しましょう。
 とにかく、戦争によって町が破壊されていた時代、夜であっても明かりは灯されませんでした。日々、破壊と混乱が続きます。親子も恋人も平気でばらばらになり、誰かの行方がわからなくなることなんて、じつにありきたりな出来事なのでした。気軽に遠方に出かけるわけにはいかなくなりましたが、その必要もなくなっていました。人間をつかまえることなんてわけないことです。私はただ、死につつある肉体から迸る熱い血液を、吐精がおこるまで舌の上で感じ続けるために、幾人もの人間を狙いました。飽きることを知らない欲望を保つ力が心の若さなのであるとすれば、やはり私は、身も心も十六歳なのでした。あの戦争の時代、私は取り憑かれたように行為を繰り返していました。
 いつしか、噂がたつようになっていました。地獄の犬あるいは鷹を連れた少年が、宵闇にまぎれて人間を狙っている。少年の姿をしているけれど、狡猾で残忍な悪魔である。食べるでなく、盗むでなく、犯すでなく、ただ殺すために殺す……
 噂の内容を鑑みれば、つまり私は確かに、何者かに目撃されてしまっていたというわけです。表向きは一時的な閉鎖をしているホテルで、三頭の大型犬を手懐けていた私ですが、私は、私についての噂を耳にして、冷水を浴びせられたようにおののいてしまいました。警戒心が異様に高まりました。仕方なく、しばらく行為を辛抱することにしました。
 本を読んだり、日記を記すことで午後を過ごすようになってようやく、この日々に繰り返してきた行為の無軌道さ、甚だしさに気づかされました。殺人の日々に対し、無為な時間を過ごしてしまったとの後悔に襲われました。目先の快感に短いサイクルで突き動かされ続ける私の行動のすべては、私の欲望がコントロールしており、それは私自身による人生ではないのでした。あの頻度は病的なものだった。自らの熱中の日々を振り返り、わがことながらおそろしく感じたものです。それからというもの、人を手にかけるのは、せいぜい半年に一人程度のものになりました。
 それはそれで、たいへんに気持ちいいのです。行為までの期間をたっぷりと持つことで、渇望が焦らされ、そのうえでようやく果たされる。それはそれはおおいによろこばしいことなのです。
 それでも、同じ行為を長年繰り返していれば、原動力たる欲望こそ尽きぬものの、行為自体への熱量は減じていきます。これは欲望というものの厄介な性質でありましょう。我慢の期間をいくら長く構えたところで、最後には必ず「やっぱり、こんなものか」と、退屈な感触をごまかせなくなっていきました。満たすことが難しくなってきてしまったのです。
 殺し方を変えてみることもありました。犬の力を借りず、まったく独力で人を殺めるのです。ナイフで刺し、ハンマーで壊し、体が持ち上がる高さまで、つかんだ首を引き上げます。そこには性的な興奮こそありませんが、嗜虐心や万能感を潤し、かつ増長させるようなカタルシスがありました。いくらか面白味は増しました。しかし、殺すことに手間取るために、肝心の血液の鮮度が少し鈍ります。やはり、殺すのは殺す係が別にあったほうがよさそうだ。そんなことを考えているうち、なんと戦争時代の混乱が落ち着いていってしまったのです。

 父のいる寄宿学校はまだ存続しています。私はいずれ、再びそこに立ち寄ることになるでしょう。私は残りの一世紀ほどの人生を思うと気が重く、もっとゆっくり過ごしたいと考えています。あの方の亡くなった以後の邸での暮らし、退屈で、常にまどろんでいるような、あの無為な日常こそが最も幸福だったように偲ばれます。いまの私の楽しみなんて、胸の内に浮かぶひとつの考えにしか見いだせません。ひそかにあたためている好奇心は、私のなかで日増しに膨らんでおります。ヴァンパイアの呪いを受け継いだ血液がどのような味わいであるのか。私のひそやかな願いは、寄宿学校に暮らす父のもとを訪ね、父の血液の味を確かめることです。そのような行為の呪わしさについて考えはするのですが、刺激的な妄想に判断力は鈍くなります。この強い欲望の前には、考えることなどはまったく無力なものなのです。
 父殺しの欲望を抑えるため、私はときおり、金属くずや電球を口に入れ、自分の口のなかにひどい傷をこしらえることがあります。私自身にも、呪いを受けた血液が流れているのですから。しかし痛みのために、快感に集中できません。むしろ、父殺しの欲望が増していく自覚があります。
 そもそも呪われた家系なのでありますし、長年ひとつの家が存続していくことはありそうにない世の中になりつつある気もします。戦争のあとの世の中をすねているだけかもしれませんが。父の血管につくった裂け目に唇をおしあて、間歇的に噴き出る血潮を味わうことで欲望が満たされても、いずれまた次の欲望がやってくるでしょう。若者に見える私をときにあなどり、ときにうらやむ人間たちが死んでいくことを、私は大変悔しく思っております。欲望のためだけに生きながらえているとしか思われない我が身を振り返り、父や、それよりも前の世代の、殺人に手を染めていなかった代々の暮らしを想像できません。この生はなんなのか。なぜ生きていくのか。そんなことを真剣に憂慮するのは、結局のところ、十六歳だからなのかもしれません。私自身には、その判断は容易ではありませんが。

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