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「心配かけやがって」

 近所に、「開かずの踏切」として有名な場所がある。いつまでも改善されなくて、数か月に一度、ニュース番組の取材がくる。一日一度だけではあるが、四十分ほど降りっぱなしのときがあるのだ。そうでなくとも一回一回が長い。深夜帯だって、貨物列車が行き交うときには踏切は降りる。もちろん昼ほど閉まりっぱなしではないものの、貨物列車はやたらに長いから、そのぶんの時間はかかる。貨物列車はうるさい。
 歩道橋はある。けど、なるべくそこは使いたくなかった。段数が多いしひょろひょろだし、つい先月、そこから線路へと飛び降りた人がいるからだ。飛び降りて、電車に跳ねられた。ずいぶん念入りなやり方だ。もちろん、歩道橋には古い、背の高いフェンスがあったが、塩ビかなにかの波型の板をボルトで止めてあるだけだから、何日かかけ、夜のうちにゆるめておくのは無理じゃなかったらしい。おかげでその事件があってから、フェンスはもっと丈夫なものに交換された。上にカエシと有刺鉄線のついた金網のフェンスで、変電所のまわりを囲んでいるようなやつだ。
 とにかく、そんな歩道橋だから使いたくなかった。いくつもの線路の並ぶ踏切のスケールはばかにでかくて、いくつかの照明はどれもものすごく眩しくて、ひどくさむざむしい感じがする。人はいない。自殺騒ぎの印象ばかりが意識にのぼってきて、じっと待っているときのびくついた気分をごまかすのに、イヤホンから流れてくる音楽だけでは頼りなかった。
 そのタイミングで肩を叩かれたのだからたまったもんじゃない。死に損なってるセミみたいに体を震わせて、情けない声をあげてしまった。おれのおおげさな反応には動じずに、カジタニはにやにや顔で背後に突っ立って、
「どうしたの? こんなとこで」
 にやついたまんま聞いてくるが、こっちは詰まった息のせいでうまく声が出なくて、カジタニは迷惑そうな顔になる。
「なんだよ、そんなに驚かなくても」謝る気はないらしい。
 あがった息を抑えつけながら、つんけんな態度で教えてやる。
「なにって、帰るんだよ、家に」しかしカジタニはそれじゃ満足しない。
「家に? なんで?」
「なんでって? なんでってなんで? 帰るんだよ、夜だろ、帰り道なんだから。お前、なにいってんだよ」
 一番手前の線路を電車が通過していき、うるさくて会話は強制的に中断される。ようやく踏切があがるとおれは歩きはじめるが、カジタニは渡らない。突っ立ったままでいる。腹を立てているおれは相手にせずに踏切を渡る。渡り切ってから振り返ると、踏切の手前に立ち止まったまま、こちらに手を振ってにこやかにしている。手を振り返さずに背中を向けた。あいつこそ、なにしてんだよ。
 けど、カジタニのことだから、そんなに違和感はない。いかにもありそうなことだ。
 カジタニは小学生のころ、同級生にたとえばUFOを見たとか、超巨大なカマキリがいたとか、そんなことを言うやつがいれば徹底的に追及し、本人が泣いても「嘘です」というまで詰めまくっていたらしい。なにがやばいって、その思い出をいまだに「武勇伝」として得意げに語るところがやばい。正しい正しくないの話じゃなくて、こだわるポイントへのこだわり方が尋常じゃないっていうか、それまでこっちでみんなで話してたとしても、ほかのテーブルからカジタニの耳に、やり過ごせないキーワードがはいってしまえばたちまちただちにスッとほかのグループへ顔を向けてガーッと持論を述べはじめたりする。血液型の性格判断に根拠がないとか、宇宙はどんな形をしているだとかそんな話。いつか落研のやつらの話に口を挟んだカジタニが、タヌキだか化け猫だかについて、絶対の確信をもってわけわかんないことを力説してたのは同学年のやつらのあいだではちょっとした出来事で、それ以来カジタニがカジタニらしい振る舞いをするたび、「カジタニが出た」ってわざわざ言われるようになった。「今日の四限の梶谷、めっちゃカジタニしてたよ」みたいな。数学は天才的にできるのに、英語はまったくできない。物理と世界史で八割を切ったことはないのに、有機化学と漢文古文で三割を超えたことはない。そういう偏りがあるから、勉強のできないやつではないにせよ、受験科目の多い国公立の医学部にはひとつも受からなかったのも、いかにもありそうなことだった。
 カジタニがどんなやつなのかを詳しく知ってる同級生はおそらくいない。浮いてるとかハブられてるとかじゃないんだけど、家のこととか誰も知らないし、謎に包まれた人物っていうのか、帰宅部だったし。
 バイト帰りに開かずの踏切のところで出くわしたのは高校を出てすぐの五月のことで、卒業してからはじめて顔を見たんだった。そのときは疲れてたし、驚かされて嫌な気分になったからろくに話もせずに立ち去ったけど、それ以降、夜によく遭遇するようになった。で、話をするようになった。
 バイト先の塾は言われてたより残業が多くて、終わるのはいつも十時を過ぎてしまう。駅からは少し離れた場所だし、すぐそばにおおきな霊園があるのもあって、夜はけっこう暗い。ひとすじ向こうの国道にトラックが通ってる音すら聞こえてくるようなさみしげな夜道だったりもする。生徒を車で迎えにくる親は多かった。ただでさえ生徒が居残っても、そいつを迎えにくる車が遅れれば、こっちの帰り時刻も、そのぶんさらに遅くなる。や、その時間だと帰るのも面倒な気になってるし残るほど振込額は増えるので、それでだらだらしているせいなのだけど。今日も遅くなっちゃったな、と思いつつ塾から出て歩いていると、「よ!」と元気よさそうなカジタニがひょっこりでてくる。
「お前勉強いいの?」腹を空かしておれは確かめる。カジタニはあくまで明るく、
「いいんだよ夜ぐらい。ずーっとしてんだから、気晴らしです。お前のほうこそ、こんな時間まで塾にいるなんてさ、めちゃくちゃ塾にいるじゃん。勉強大好きかよ。生徒に間違ったこと教え込んでやれよ」
「私が高校生の頃、もっと英語を勉強していれば、今頃大学生をしていたでしょう。ほら、英訳、英訳しろ」
「仮定法過去ですか?」カジタニは得意げに間違える。
「なんだ、ちゃんと勉強してるじゃん」間違ったことを教えると、すかさず、「現実のことじゃないし、過去のことだから、仮定法過去完了が正解です」と訂正してくる。カジタニが出てるなあと思ってつい笑ってしまうが、おれの笑いの意味は誤解されてカジタニも笑う。
 わけわかんない偶然だが、ほんとうにたまたま、ちょうどカジタニの夜の散歩エリアの真ん中を通る道を選んで、おれはバイトから帰宅しているらしい。かなりいろんな場所で出くわすからだ。神社から出てきたときもあったし、人住んでるんだかわからないボロアパートの三階の外廊下から声をかけられたこともある。もちろん毎回びっくりはするんだけど、回数を重ねるにつれ、楽しい驚きに変わっていくから不思議だ。開かずの踏切のぎりぎり手前が、やつの散歩エリアの境界線だと、おれは勝手にそう決めつけていて、踏切を渡り切ってから、そこではじめてイヤホンを装着する癖がついた。
 ときには特になにもしゃべらない夜もあった。それでも、しばらく並んで歩いたものだった。夜道で出会って黙ってついてきて、そのうち別れ別れになる。「なんか野良猫みたいだねえ」そう言うと、この言葉を頭の中でしばらく味わうような間をもたせたあと、「それは、黒猫?」と真剣に聞く。こういうところにもカジタニらしさを感じて笑ってしまう。

 バイト仲間っていうと、なんていうか「仲間」っていう響きが気に入らないからいやだけど、ともかく、同じ塾で働くのも近所に住んでる大学生で、近所に大学はないので、つまりほとんどが実家暮らしの大学生。ということは、おれの中学の同級生と高校で一緒だったとか、そういうことが珍しくない。いまたまたま同じ場所でバイトしてるとはいえ、互いの人生はそれまでも微妙に交錯しかけてたっていうのがはがゆいようでおかしくて、ほんの数回だけど、機会があればそんな「バイト仲間」と一緒に帰ることもあった。そういうときにカジタニと遭遇することはなくて、もしかしたらこちらを見かけても、遠慮して話しかけてこないっていうことなのかもしれない。それはなんだかカジタニらしくない。カジタニなら話しかけてくるはずだ。
「もしかしてさ、いや、全然そういうの信じてはないんだけど、もしかして君ってさ、なんていうかその」会話の切れ目に「バイト仲間」がおずおずと尋ねてきた。「霊感とかがある人なの?」
 素っ頓狂な声をあげ、おれはそれから笑った。あそこの暗がりから、ここのバルコニーから、排水溝のなかから、空の上から、カジタニがふいに現れるんじゃないかと、いつもどこかで待ち構えているおれの身振りを誤解して、なにかの気配を感じてたり、怯えてたり、そういう様子に思えたらしい。
「まあ似たようなもんっていうか、もっとこわいんだけど、夜になるとこのへんにカジタニっていうさ、高校の同級生が抜き打ちで出現することがあるんだよね。たまになんだけど、驚かされるからさ、構える癖がついちゃって」

 暑さがいよいよ盛ってきたころだった。深夜にさしかかろうという時間でも、風がないと空気が重い。本業の学生のほうではレポートに追われ、塾は期末試験対策と、それに夏期講習についての問い合わせ対応で仕事が多い。まあ、バイトにはそこまで関係ないことではあるけど、電話含めてやりとりする保護者の数が多いんで塾内はせわしない雰囲気。疲れてたせいか、ボロアパートの三階から突然声をかけられたのに、まったく驚かずに顔をあげることができた。「よ! 久しぶりじゃん」おれは、次会ったら聞いてみるつもりで用意していた質問をした。「お前、携帯持ってるの?」こちらは道にいて、あちらは三階にいる。
「持ってるけど今は持ってない、や、持ってるけど、けど電池切れちゃって」カジタニは、悲しそうに答えた。
「携帯の意味ねえじゃん、なんでだよ」三階に届かせる声の大きさがうまくはかれない。
「てかなんで? どうしたの?」
「そういや連絡先知らないなって」
 そうなのだ。たまに夜道で一緒に歩くことで親しみは増してきたけど、けど、カジタニのこと、なにも知らないし、ここらで一回、一緒に昼飯でもどうかと思ったのだ。本人がマイペースだからこそ逆に、浪人生活のストレスや孤独を勝手に想像して同情するようになってたのかもしれない。や、照れてるだけかもな。謎の人物とお近づきになりたい気持ちのほうが強いかも。
「それならさ」音をたてて階段を一気に駆け下り、カジタニは胸ポケットからくしゃくしゃのレシートを出した。「ここに、この裏に書けよ、折り返しますので」

 お盆休みに駅前のモスバーガーで待ち合わせた。昼の光の下にいる私服のカジタニを見たのははじめてで、どうにもしっくりこない。バーガーとポテトとドリンクのセットに、さらにドリンク単品を追加で頼んだカジタニは明るく、「ここ、いっつもビートルズばっか流れてるけど、今日はなんか違うな」と知ったかぶりをする。流れてるのはビートルズではないけど、ジョン・レノンのアルバムだから、まあ似たようなもんだ。
「俺は確かに、ここんとこの日々ってのはさ、話相手も少なけりゃ、単調でさ、そのくせやることばっかりある生活だけど、そっちはさ、ねえ、大学生なわけでしょ。花の、ってやつ。それなのにわざわざ俺を捕まえて、わざわざ時間作って、俺としちゃありがたいけど、さてはお前大学にうまいこと慣れられてないんじゃないの?」
 カジタニは初手でそんなことを言い出す。そう言われて癪ではあったが、実際そうなのかもしれなかった。
 おれはカジタニに押されがちで、大学の話だとかバイト先の話だとか、なんだか自分のことばかりを話す羽目になった。これじゃ予定が違う。「それにしてもあれだな」メロンソーダを飲み切ったカジタニが追加単品のペプシに口をつける。「こうして会ってるのに、高校の思い出話とか、あいついまごろどうしてるとか、そんな話にならんもんなんだな」
「お前のことがそもそもよくわかってないからそういうとこまで行かないんだよ」
 まとめると、まずカジタニには兄が一人いる。父親は家にいないことが多い。父の仕事は「なんかわかんない」とのことで、まだ言いたくない模様。兄は会社勤めだが、地元の付き合いがいまだに濃く、このへんでしょっちゅう遊んでいる。母親は報道系の記者をしていて、それも真面目で地道な、徹底追及、みたいなスタイルらしい。仕事の素材になるかもしれないといって、いなくなった人や猫を探す張り紙をちぎって集めているそうで、家にはそのコレクションがたくさんある。カジタニ本人の趣味は、夜中にインターネットで、高速道路に設置されている監視カメラのリアルタイム映像を眺めること。風呂にはいるときには浴室の電気を消す習性がある。
 納得といえば納得だし、まあ一応「知る」ことはできたわけだけど、カジタニに対して持っているイメージやらなんやらが少しもアップデートされてないような気もして、妖怪ってこういう存在のことを指すのかもしれない。心残りだったのは、家の場所とか夜の徘徊のこととか、こうして二人で会うようになる流れをつくった状況について、なにひとつ解明できなかったことだった。とはいえまあ、そのうちまた夜に偶然会うだろうし、聞きそびれたことはそのときにでもぶつければいい。また会うのを期待している無邪気な自分が、我ながらかわいく思えた。

 夏休みには、カジタニとは別の、高校の同級生とも会った。ただ、大学の人と会うことはない。
「え、お前そっちのタイプなの? そんなシャイな人だったんだ」同級生にはからかわれる。「てきとうに飲み会とか付いてったら知り合いできるよ。はやくしたほうがいいと思うけど。てかほら、わかった、タバコだよ、タバコ吸いな。喫煙所の人と顔見知りになれんじゃん、そっからだよ」
 バイト帰りにカジタニに遭遇することも、ついに先日、昼にふたりでモスバーガーにいったことも、ほんとは話したいのにタイミングを見つけられず切り出せない。悔しいけど、切り出せない。大学でうまく友達とか作れないのも、こういうところがあるからなんだろうな、と真面目に反省していると、
「なんだよ、めっちゃマジにへこんでんじゃん」笑われた。
 一方、バイト先ではどんどん打ち解けていて、夏期講習の初日から入った新人バイトに業務を教えるのが楽しかった。ほんの数か月の差しかないけど、「前まではこうだったんだよ」とか「これ先月買ったやつなんだよ」みたいな、偉そうに話せるのは気分がいい。新人とはいえ同じ年齢、同じく大学一年生、業務内容を教える都合で、夏期講習中かなりの頻度で一緒に帰ることになった。新しく知り合った人と急速に距離が縮まる高揚感には中毒性っていうか、かなりあやうい楽しさがある。あんまし舞い上がったり調子に乗りすぎないように、と、自分自身を抑えながら、ほとんど毎日のように、塾から駅までの道を歩いていった。やっぱり、人といるとカジタニとはまったく遭遇しない。こっちの様子を遠くからみておきながら、あえて話しかけてきてないってことだとしたら、へんに勘繰られてしまっている可能性もある。最近やけに仲のいい女子がいるみたいだなっつって。

 夏期講習も終わりが見えてきた。講習最後のテストを翌日に控え、その準備を終えた帰り道だった。いつか一緒に帰ったことのあるバイト仲間と、それから新人ちゃんと、三人で塾を出た。前一緒に帰ったのって、あれいつのことだっけ、もう四か月近く経つかな。以前より打ち解けたのも手伝って、前より穏やかなテンポで言葉を交わしていく。大学はお互い、いまだにうまく馴染めていない。いや、もしかしたら、会話の調子をあわせようとして、お互いがお互いに気を使って、その結果、「お互い大学でうまく周囲と馴染めてない者同士」を演じすぎているのかもしれない。なんてふうに考えすぎるから、だからよくないんだ。新人ちゃんは対照的で、大学生活も明るく楽しく過ごしている。先週は八人でキャンプに行っていた。八人ってすごい。なにそれ、どういうこと? 新人ちゃんを囲む二人は自分を守るためのひきつった笑い顔を浮かべ、文化祭の期間どうやって過ごすつもりなのかを話し合う。参加しないから、まる二週間の休みになるのだ。
 和やかに歩いていると、どのタイミングだったか、徐々に違和感が強くなってきて、ついに新人ちゃんが言及した。
「さっきからへんなにおいしませんか?」
 確かに生臭いような、気持ち悪いにおいがする。
「思ってた。なんだろこれ」
「ね、やっぱくさいよね」
「なんかやな感じ。鳥肌たってきちゃった。なんだろう、なんのにおいこれ? どこから?」そう呟いて、新人ちゃんは勝手に路地を曲がっていってしまう。こっちも鳥肌をたてていたので、その偶然の一致が、気持ち悪いような、安心なような。
「どこいくの」
 こちらの制止も無視して、彼女は家と家のあいだの狭い路地、六十センチほどしか幅のないような暗い道を進んでいく。後ろ姿を、二人で心細く見守る。その道の先がどうなっているか、曲がり角や分岐があるのかわからない。不意に、この道からカジタニが突然出てきたことがあったのを思い出した。そういえばそうだった。
「ああっ!」
 新人ちゃんがいるところよりももっと奥のほうから、短い、情けないような、おそらく男の叫び声があがった。思わず体がびくっと緊張する。新人ちゃんも、パンチを繰り出す猫のように突然肩を動かす。音のした方向では、この不意の声とほとんど同時に、なにか硬くて軽いものが道に落ちる音もした。新人ちゃんは慌てて走って戻ってきて、「は? 信じらんない」って口調で
「めっちゃびっくりしたんだけど」小声で憤る。
「なんか落としてたね」こちらもあわせて小声になる。「酔っ払いかなあ」
 寄り道をひっこめてから、しばらく黙って歩いていた。びっくりしすぎて不機嫌になっていた、というか、そう、こわくなっていた。こわい、という感じを味わうので手一杯で会話ができなかった。駅前の賑やかさがあらわれはじめたあたりで、四か月ほど前に一緒に帰ったことのあるバイト仲間が突然、ちょっとした話を切り出した。
「思い出したんだけど、最近、こわい話を入手してさ」
「なによ、なになに」おれも思わず前のめりになる。ちょっと先で貨物列車が走っている、その音が届いている。
「あのね、自分の話じゃないんだけど、友達の、ここらへんに住んでる、中学の同級生の話でね、こないだの出来事で、一ヶ月くらい前になるかな」
 話は簡単で、近くの山道をドライブしていたら、トンネルの付近で人影をみた、という目撃談。そのトンネルは古いし低いし汚いし、いかにもそれっぽい雰囲気の場所だ。そういうのが好きな人にとっては肝試しにうってつけのスポットらしい。バイト仲間の同級生が、そのトンネルのあたりで目撃したというのは若い男で、携帯かなにかを片手に突っ立っていたという。
「なんですかそれ? え、つまり普通に人がそこにいたって話?」
「そう、そうなの。幽霊の話じゃなくてね」
「どういうこと?」
「だからそれが怖いんだよ。気持ち悪くない? 山の中でだよ? 荷物とかなんも持ってなくて、そばにママチャリたてかけててさ。で、トンネルの入り口のあたりにずっとうろうろしてて。ほら、あそこ別に交通量多くないしさ、けっこうさびれてる感じじゃん。遠くからすでに、ずっと見えてたらしいんだけど、その、だから、最初、遠くから見えてさ、そのときにね、誰かいるなあつって見えてたときは、なんか困ってる人なのかな、みたいなね、事故とか。で、心配してたらしいんだけど、全然そんなんじゃなくて、速度落としてそばを通過しただけで、結局声はかけなかったから、どういうことかわかんないって話で」
「遠くからも見えたの?」
「え、そうだよ。だってまだ暗い時間じゃないもん。夕方って言ってたかな。暗くなる前。へんだよねえ」
「あ、てっきり怖い話だから夜のことだと思ってました」
「そうそう、違うんだよ、明るくてまだ。明らかなやばい人とかじゃなくて、普通そうな若い男が、へんな場所にしれっと立ってて、だって山だよ? 山ですよ? 普通の恰好してさ、ママチャリで」

 夏期講習が終わった。新人ちゃんと帰ることもなくなった。塾は変わらないけれど、人手が増えたこともあって、出勤日数がちょっと減った。馴染めない前期が終わったあとの夏休み、実家暮らし、することはない。カジタニとも遭遇しないし、浪人生への気遣いもある。本を読んだり、一人でちょっと遠くまで行ってみたり、なんとなく時間を、なるべくおもしろく過ごそうと工夫しても「あっという間に一日が過ぎてた!」にはならない。そのくせ、あっという間に一週間は過ぎる。後期からの大学でどう友達をつくろうか、友達が欲しいかといえばよくわからないけど、せめてもう少しリラックスした居心地の場所であって欲しいとは思う。なんてことを悩みつつ、相変わらず淡々と授業の続く塾は、相変わらず夜が遅い。ひとりきりの帰り道が二週間、一ヶ月と続いて、いつのまにか夏も終わり、残暑も終わって、暗くなるのがどんどんはやくなっていた。カジタニに会わない。まったく遭遇しなくなった。あいつ、なにしてるんだろう。
 夏から秋、冬へと、試験日が近づくにつれスケジュールも変わってくるだろう。頭ではいちおうそう考えて、自分に言い聞かせてはいるけれど、Tシャツでは寒い夜、カジタニに遭遇できないことは物足りなかった。高校のときの友達に限らず、わざわざ連絡をとりあうような関係の人はいない。こう特定の誰かと巡り合うことを期待し続けちゃうなんて、まるで恋だな、と、自分自身に突っ込んでおもしろがる。とはいえ冷静に、こだわりすぎなのはよくない。誰かひとりへの依存心が強い状態はよくない。そうは思っているはずなのに、塾から駅までの道をまっすぐとらないようになった。おそらくカジタニの散歩エリアなんだろう区域内を、へんに迂回して、もったいつけながら帰るような晩もあった。カジタニのへらへらした顔が懐かしかった。
 それだけは越えちゃいけないと、自分自身に言い聞かせていた線引きを破ったのは九月の終わりごろだった。カジタニの携帯に電話をかけてみたのだ。あいつの連絡先をさわるのなんて、モスバーガーに誘った以来のことだった。勉強の邪魔かもしれないし、特に用件があるわけでもないし、自分の振る舞いが気持ち悪いようにも思える。しかしそれより、声が聞きたかった。いつも通りに過ごしてるって確証を感じたかった。それで電話をかけたら、プルルルルと聞こえるはずのコール音が鳴る前に「この番号は現在使われておりません」のアナウンスが流れた。
 青天の霹靂、という言葉を思った。先週採点をしていた答案にあった言葉だったからかもしれない。人生で「青天の霹靂」と思うのははじめてだった。「霹靂」ってなんだよ。「青天の霹靂」でしかお目にかかったことがない。「走馬灯」とか「水族館」の「水族」とか、「愛媛」の「媛」とか、そんなような言葉。
 カジタニと連絡がつかない。連絡がつかない以上、どうしてるのか知りようがない。連絡がつかないと、もっと知りたくなる。どうしたんだろ、元気してるんだろうか。「How are you?」その声掛けの心がわかったような気がした。

 そのままカジタニと会うことなく後期ははじまって、授業の都合で知り合うことになったほかの学科に、いっしょに昼を食べるのを誘ってくれるような人ができた。素直にうれしかった。そこから輪が広がって、ほかの学科の人との交流が進んでいった。で、文化祭のシーズンの休講中には、みんなでちょっとした旅行に行くことになった。
「いっちゃえばまあ無目的にやってるバイトでさ、作ったお金をさ、使うさ、お金使う理由っていうかタイミングっていうか、モチベーションがようやくできたんだよ」
 帰り道、バイト仲間に報告する。ずるいずるいと連呼しつつも、結局は「よかったねえ、いいなあ、よかったけどさ」と祝福してくれた。
カジタニに久しぶりに遭遇したのは、この帰り道のことだ。
 バイト仲間と別れ、ひとりで開かずの踏切までを歩く。遮断機は下りていた。待ちながら、踏切を渡ってから家までの十五分間になにを聴こうか、ポケットのなかのイヤホンをつまんだ指をくにくに動かしながら考えていた。けたたましく過ぎる貨物列車を見送ったあと、片手でイヤホンケーブルをほぐしながら、とぼとぼ踏切を渡っていると空から声が降ってきた。
「おーーーい、おい、おーい、おいっ、おーーい」
 踏切内で立ち止まり、タイミングやらシュチュエーションやら、内心「マジかよ」と戸惑いながら見上げると、歩道橋から声の主が見下ろしている。変電所みたいなフェンスのむこうにいるのは、はっきりはわからないけれどどうせカジタニだ。
「え? ああっ?」おれがいきなり叫ぶものだから、踏切を渡る夜の帰宅者がびくついてこっちを見る。
 とりあえず急ぎ足で踏切を渡り切った。渡り切ってから振り返り、見上げて、歩道橋の上のカジタニを眺める。片手に握った携帯を振って、こちらに挨拶をしているみたいだけれど、こちらにやってくる素振りはない。なんだよあいつ、あっけなく現れやがって。心配かけやがってよ。ぶうたれながら歩道橋の階段をのぼった。ひょろひょろで心細い階段がオモチャみたいでばかばかしい。細かく折り返す階段だから、のぼっている最中はカジタニが見えなくなる。ようやくのぼりきると、そこに待ち構えていたカジタニが開口一番、おれに謝る。
「ごめん、久しぶりに会えたのほんとうれしいことではあるのですけど、いまね、時間これぎりぎりで、ちょいやらかしちゃってるからさ、すぐ帰んなきゃなんだよね、のぼってきてもらえてうれしいんだけどね、ご足労、ほんと、もう、ちょっとほんとに帰んなきゃいけないから」それだけ言うと強引に手を握ってきた。あっけにとられるおれを気遣わず、激しい握手のあと「じゃ」と呟いて背を向ける。
「え、携帯かえたの?」遠ざかる背中にきく。カジタニは振り返る。
「ああ、そう、前の落として壊しちゃって、ようやく新しいの手に入れたの。苦労したよ」言い終わるとすぐに背を向ける。
「番号変わってる?」問いかけるとすぐにこっちを向く。
「変わってないよ! 使えない時期がけっこうあっただけ。連絡してくれてたんだ」そしてまた、すぐに背を向け、遠ざかっていく。
「ねえ! ねえってば!」声を張りあげないといけない。カジタニは遠ざかるのに、列車が近づいているのだ。「なにしてたの! ここで。てか、なにしてるの、夜、いっつも」思いの強さのせいか、想定よりでかい声が喉を通り抜けていく。カジタニは振り返る。少し考えるような身振りをしてから、明るい表情で答える。
「写真、写真撮ってるの、携帯でだけど、ほら、あの、だからさ、撮れるもんなら撮ってみたいのよ、」そこで貨物列車だ。歩道橋が揺れる。カジタニ本人としては最後まで話をしきったんだろうけど、最後のほうはうまく聞き取れない。カジタニは轟音のなか、こちらに背を向け、去ってしまう。目で見送りながら、言葉の続きを想像する。そしてだいたいの想像がついた。で、腑に落ちたわけだ。心配かけやがってよ。
 この半年くらいの出来事や耳にした話を思い返して無理にこじつけたりして、筋道を頭のなかで遊ばせる。徹底取材を心がける親のもとで育って、UFOとか化け猫に関心のあるカジタニは、深夜高速の監視カメラ映像を見るのが辞められないのだ。ボロアパートやら神社、春に飛び降りのあった踏切を夜にめぐっている。なんだあいつ。イヤホンもせずに家路を急ぐ。肝試しスポットにされることのあるトンネルに携帯片手に張り込んでたのもカジタニに思われるし、へんなにおいのする路地の先でなにかを落として短く叫んでいたのすらもカジタニに思われてくる。写真を撮れる機械を落として壊したカジタニが夜に出歩かなくなって、だから出くわすこともなくなったし、連絡もできなくなっていただけなんて、心配して損した気分だ。
 けど、もしそうだとしたら。おれはふと考え付く。
 あの夜、新人ちゃんの潜入していた路地の奥にいたのが、写真を撮るために待ち構えていたカジタニで、思いがけない出来事に思わず携帯を取り落とし壊してしまい、それで「ああっ!」って声をあげていたのだとしたら。そうだとしたら、あの夜にバイト仲間たち三人で確かに嗅いだ、あそこに漂っていたへんなにおいは、ただのへんなにおいっていう以上の意味を帯びはしないだろうか。それに、あの短い叫び声は、なにに対してのものだったのだろう。もしあのにおいがカジタニの撮りたい種類の写真に関係していたとしたら、それはつまりどういうことだろう。If that smell was related to the kind of photo Kajitani wanted to take, what would that mean? これは仮定法過去。

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