そんな僕が大好きだった子

2019年僕は東京にいました。

僕達子会社は実はささやかながら自分たちの会社では単月黒字化できていたのですが、そこは大きなグループ会社の一員。また親会社他複数社から大きな資本も入れてもらっていたのもあり、親会社とのシナジー?(死語?)とか、もっと大きな売上にしないと意味が無いとか(当時一応、、年商10億円超の売上げがあったが。)言われ、親会社と合併しちゃいました。

そして当時、「振り回し系」の役員がグループの中で幅をきかせていたのあり、朝令暮改。なんだかんだ色んな事が降り注いできて現場は混乱の一途を辿ってました。

そんな中、僕はよく分からない理由で、立ち上げ以来赤字の僻地の事業所に行かされた僕には当時付き合っていた子がいました。その後思うに飛ばされたんだろうな、と思っています。

僕から一世一代の告白をした子。
明るくて元気で、やんちゃで、可愛くて、お年寄りに優しくて、誰からも好かれる、そんな子。ほんとに好きだった。筈なのに、、でも、ほとんど帰らなかった。呼んであげもしなかった。今思うと、今思わなくてもボクがクソです。「仕事のことが気になって、、、」結局いつも僕はこれです。でも、結婚への踏ん切りはついてないくせに、その子のお父さんが亡くなられた際だけは駆けつけました。お父さんが倒れて家のローンを抱えてお母さん、お姉ちゃん、その子、の3人で苦労していた話はいつも聞いていたので、それだけは不思議ときちんと行きました。

気づいた時にはもう遅いです。2009年の1月電話をもらい、「電話でごめんね。ほんとは行ってちゃんと話したいけど、」って言いながら別れを告げられた。彼女との別れであんだけ泣いたのは初めてって位、泣けてきましたし、仕事も手につかなかった。

放心状態とはこの事。その事業所に異動になって初めて平日有給を使って帰省しました。彼女と直接話したくて。でも、何とその日は3月11日。忘れもしない。羽田からモノレールに乗って、浜松町手前、いきなりの社内アナウンス。「何とかかんとかで(急だったので聞き取れず。)緊急停車します!」と言った瞬間、一瞬の間があり、ガッタンガッタン揺れました。最後尾に乗っていた僕は、レールが波打つの迄が見えて、かつ、社内の中国人の方々が大きな声で叫ぶのを聞き、怖さ倍増で、本当に死を覚悟しました。何故なら、浜松町の手前、かなり高い位置にある状態で激しい揺れを食らってましたので、レールが外れて落ちそうな感じでしたから。

その後は震災時ご苦労された皆さまと同様です。タクシーなんかだってつかまるわけもなく、当時、内緒できていたいた僕は一生懸命連絡を取り続けながら、一方で彼女たちの転職先と聞いていた池袋駅を目指しました。彼女と連絡が着いたのは確か6時過ぎ位。今思っても優しい彼女でした。急な話だったけどわざわざ上京してきているのを理解し、お互いに春日通りを歩いて合流しよう!って話になりました。なぜ春日通りか?僕が以前、小石川に住んでいたので春日通り沿いは活動範囲内で、2人にとって思い出の場所だったから。

ようやく落ち合うことができ、2人で新大塚駅近くの居酒屋のカウンターに何とかはいることができ、近況報告をし合いました。時に笑顔も。何ともあかんたれな僕は最後、駅で別れる時に、彼女の手を握って、「やっぱり、大好き
だ。結婚したい。もう一度やり直してくれ。」と言いましたが、彼女は別れ際泣きながら、「やり直せない。」って言いました。分かってはいた結末ですが、心に穴が空いた感じ。しかも、震災の非常時の心もとなさもあり、切ない気持ちを抱え、何とか家路に着きました。

その当時僕の会社は、当時ですらも今更ながらの「紙=雑誌」に重きを置いていたのがどうにもこうにも厳しく、当時約40歳。東京に戻って心機一転、新しいチャレンジをする、そして、彼女に「結婚する決意を固めた。僕と結婚してくれないか。」と言いに行く!そう決めて、東京に戻りました。

当時既に別の方とお付き合いをしているという、風のウワサを聞いていた僕はわざわざ前職を辞め東京まで来ているというのに、直接電話をするのは良くないかな、なんて、何とも積極性に欠ける考え方で、メールで、自分の趣旨を伝えました。結果は見えていたのかもしれませんが、案の定、「会いに行くことはできません。ごめんね。」と断られてしまいました。

次に続きます

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