特別支援学校からの発信「努力より工夫を」
困難な状況でも諦めずに頑張ることや苦労して頑張ったことの成果を否定する訳ではありません。
僕自身も人並みに努力はしてきましたし、努力してきだことが実を結んだ経験もあります。
ちょっと個人的なお話です。
どちらかというと僕は小さい頃から勉強ができました。だからか大抵の勉強はそんなに苦ではありませんでした。特に社会が好きでしたが、それは小さい頃から『子ども日本の歴史』を繰り返し読んでいたからかもしれません。
反対に運動はあまり得意ではありませんでした。多分ボディイメージがそんなに得意ではなく、運動センス的なものがあまりないのでしょう。その代わり、同じことをコツコツと何度も繰り返すことでその型を身につけることはちょっと得意そうです。小学校時代からやっていたミニバスケットボールのお陰で、バスケはそこそこできるようになりました。
バスケットボールでは常にレギュラーという訳ではありませんでしたが、引退まで練習には参加しました。それはもともと勉強でコツコツ続けた成果を経験していたからでしょうか。今にして思えば、僕はそんなに身長が高くないのにリバウンドを取るのが得意だったからセンターのポジションだったし、感覚より頭で考えるタイプだから、もっと自分に合ったやり方を工夫すればよかったなぁと思うのですが。工夫すれば努力の効果は何倍にもなります。
努力できる子となかなかできない子の差はなにか
今まで関わってきた子たちの中には、「努力することを拒否する子」がたくさんいました。彼らを分析してみると、今までできなかった経験、周りの子たちはできるのに自分はできないという経験を繰り返してきた結果、「頑張っても無駄だ」「どうせ失敗するんだから」という気持ちを持っていました。「努力してできなければ、自分のチカラのなさがわかってしまうから、(自分のプライドを保つために)やらない」という子もいました。
学校という場で、働く先生方の多くは大抵勉強ができた側、言い換えれば「努力が報われてきた側」の人が多数を占めます。努力によって自分が成長できた経験があるから、子どもたちにも同じように努力を求めます。
もちろんそんな指導についていける子もいますが、難しい子もいます。その違いは成功体験や努力によって成長した経験があるかどうかだと思います。あと課題がちょっと手を伸ばせば達成できそうかどうかもあるでしょうか。
その努力の方向はどうなのだろうか
もう一つ、考えてみてほしいなと思うのはその努力をさせる方向が本人の特性に合っているのかということです。
ひたすら漢字の書き取りの練習をさせることに、九九を唱えて覚えさせることに、黒板の文字を連絡帳に写すことにどれほどの意味があるのでしょうか。実はそれぞれは漢字を覚える、九九を覚えて計算できる、忘れ物をしないという目的のための数ある方法の1つです。なら漢字ドリルを繰り返すのではなく集中して数回書いたり、唱えて覚える方法があってもいいはずです。同様に九九は唱えなくても九九表を覚えても、算盤の指の動きで覚えてもいいですし、黒板はタブレット端末で写して後で見ればいいでしょう。
一人ひとり得意な認知や記憶の方法が違うのに、漢字は何度もドリルに書いて、九九は何度も唱えて覚えることが当たり前になっているのでしょうか。多様性を認めるなら、多様なやり方を試す余地があるべきですし、その過程で自分の得意な認知や記憶の方法を知ることは長い人生においてとても役に立つことだと思います。
ちなみに盲学校発の唱えて覚える漢字を紹介した記事はこちらです。
努力を求めるよりやりたくなる工夫を
そんなことを言いながら僕自身も子どもたちに対して「なんでやらないんだ!頑張れよ!」と感情をぶつけていたこともあります。そんな風に子どもたちのせいにして叱っても、多分お互いにいいことはありません。あのときに僕がするべきだったのは、「どうしたらこの子がやりたくなるのか」を考えて試行錯誤を繰り返すことだったのです。
ある研修会で聞いた話です。漢字が苦手で嫌いな子がいました。そしてその子は海の生き物、魚がとても好きでした。なのでまず「鯛」や「鮪」などの魚の漢字を覚えました。寿司屋さんの湯呑みのアレですね。そこから例えば「鯛」なら「周り」、「鮪」なら「有」など魚偏でない部分の漢字に広がり、いつしか漢字が大得意になり漢検一級に合格したという内容です。この話を振り返って思うのが、「最初から漢字を練習しなさいと頭ごなしに言われてもその子は漢字を勉強しなかっただろうな」ということです。
(画像はプラスネットより)
僕自身も子どもの好きなキャラクターや電車を使って漢字や計算などの学習をしたり、いろんなことを例えたりすることがあります。好きなものを使うのは僕の好きな工夫の1つです。
「頑張れ」ではなく、具体的な方法を伝える、そして環境を整え、便利な道具を使う
子どもが忘れ物をしたときは、「なんで忘れるんだ!」と叱るのではなく、どうしたらいいのか、例えばメモをすればいいのか、メモを見るのを忘れないようにどこにメモすればいいのか、後でと思うと忘れるから朝ではなく前の日のうちに用意しておいたらいいんじゃないのかと「どうしたらできるのかの工夫」を一緒に考えるようにしています。
他にもあります。
片付けられないのなら、必要ないものは捨てて、どこに何を片付けるかを決め、写真や絵カードを貼り視覚的にわかりやすくする、仕切りをつけるなどすればいいかもしれません。
友だちとトラブルになるのなら、相手との関わり方や相手の気持ちを想像する方法、自分の感情コントロールやストレスの発散、伝え方を考えて工夫すれば解決するかもしれません。その子だけでなく周りの子への対応も必要かもしれません。
授業中に気が散って集中できないのなら、黒板の周りから掲示物をなくし、授業の流れやいま教科書の何ページを開けばいいのかを視覚的に示せばいいかもしれません。
姿勢が悪いのなら、毎回叱るのではなく、正しい座り方を示したり、「グーピタピン」みたいな合言葉を決めたり、座面に滑り止めシートを貼ったり、まずは腕の力を使って背中を伸ばす姿勢を維持したりしてもいいかもしれません。
つ(画像はけんちくブツブツダイアリー(新館)より)
(画像はQチェアマットより)
ファスナーや靴下なども便利なグッズが沢山あります。
(画像はFacebook手を使わなくて靴下が履ける便利グッズより)
(画像はcreemaより)
決められたやり方にこだわらず、環境や方法を工夫し、具体的なスキルを身につけていくことは遠回りではなく快適な近道かもしれません。
世の中の人がやっているちょっとした工夫「ライフハック」にも参考になるアイデアがたくさんあります。
そして、子どもたちには、そんな自分に必要な道具や工夫を求め、提案する人になってほしいなと思います。
どうすれば工夫できる子になるのか
そんな工夫するスキルを身につけてもらうためにはどうしたらいいのでしょうか。確かなことは言えませんが、モデリングといって子どもたちは周りの大人から多くのことを吸収していきます。保護者や支援者がそのモデルとなるように工夫し続けることが1つの方法かもしれません。
また工夫して成功した経験を重ねることも必要ですし、ある程度の成功体験を重ねてからは、「●●しなさい」ではなく「どうしたらいいかな」と本人が考えるような言葉かけにしてみるのも必要かもしれません。
いずれにせよ、これからの社会では本人が合理的配慮を求めていく必要があります。そのためにも自分に有効なやり方を知り、努力だけでなく工夫を考えていくような支援や関わり方が求められていくのでしょう。
まとめ
この「努力より工夫」という言葉は、その内容はいろいろな本や研修会で聞いたことがありましたが、この記事を書くきっかけになったのは『LD・ADHD・高機能自閉症へのライフスキルトレーニング(小貫 悟/東京YMCA ASCAクラス)』という本のコラム「究極のスキル」です。この本にはそんな工夫を考えるのにとても参考になるスキルの数々が掲載されています。
僕自身も子どもたちに、自分の工夫を怠って、ただただ努力を求めてしまったことがあります。「そのときは頑張らない子どもをどうにかしないと」なんて考えていました。その子が卒業してから、新しい環境で楽しみながら頑張っている様子を見ていろんなことを決めつけていた自分を反省しました。
「努力より工夫を」と語るときに、僕の中では童話『北風と太陽』のイメージがあります。
(画像はBe&Doより)
強い風で旅人のマントを無理矢理脱がそうとする北風ではなく、暖かさで気づいたら旅人がマントを脱いでいたような太陽であるために、今日もいろんな工夫を考える人でありたいなと思います。
表紙の画像はStyle Knowledge「直感力のある人の心理特徴7つとひらめきの力を鍛える方法」より引用しました。