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愛着障害と、現象学の相互主観性理論についての研究ノート

大塚類著 『施設で暮らす子どもたちの成長:他者と共に生きることへの現象学的まなざし』の序章と第1章の内容を要約しました。
本書は、著者の博士論文を基にしています。児童養護施設における子どもの在り方を「現象学」という視点から研究した一冊です(現在は絶版)。

講義のために要約したのですが、せっかく10時間くらいかけてまとめたので、こちらにも公開しておきますが、初見だとよくわからないかもしれません。講義では、文献購読をするので、全員が一読しているという前提です。


序章 本書の課題

根なし草=「空っぽで、自分に自信がないし、ふわふわしていて、落ち着ける場所もない」子どもたち

「根なし草」である子どもたちの「在り方」と「変化と成長の過程」、そして「自己の確立過程」を追う。

研究方法

筆者の7年以上にわたる施設での記録を事例とする。客観性や妥当性は問われるが、そもそも「純粋に客観的な研究」などはありえない。そもそも現象学では、「自分自身の経験の本質の解明」が根拠である。

本書では、事例に即して、以下の視点で考察していく

・誰でもが読み取れる事柄 ・子どもの変化 ・実際に感じたこと ・研究者の意図 など

 単なる表面的な人間理解を超えるためにも「理論的枠組みに依拠」し、現象学の成果とつき合わせ、実践と理論の循環をすることで、より深い次元における解明が可能となる。

理論的枠組み→「フッサールの相互主観性理論」と「彼以後の現象学の成果」

 文献学ではなく、取り上げる個々の事例に即して、相互主観性理論の捉え直しをすることになる。

(以下、割愛)

第1章 第1節 先行研究

 フッサールの現象学=「学問を絶対的に基礎づける」ため「すべての学問の成果を差し控える」

そのために、「生活世界」というを考える必要がある。

生活世界=「すべての客観的な実践一般に対して、予め与えられた世界という基盤存在」

客観的学問は生活世界を基盤としながらも、学問の知見が生活世界に影響を与えてしまうという循環性がある。したがって、我々が日常素朴に信じている自明性や妥当性を差し控え、本書の事例に、学問の知見や成果がどれだけ妥当し有効なのかを問う必要がある。

そのため、本節では、子どもの在り方の先行研究を粗描する。


1. 精神分析理論における子ども ― 養育者関係

・マーラーの乳幼児研究

自己の獲得の三つの段階 ①正常な自閉 ②母親との共生 ③分離―個体化

・ウィニコットの乳児の母子関係研究

「乳児が母親の育児に支えられてはじめて存在し、それと一緒になって一つの単位を形成する時期」

・ベッテルハイムの乳児の養育環境に関する研究

「後日における人間世界との関わり合い方を決定する」要因は、「生まれて初めての世界との交渉をいかに内的に体験するかということ」。しかし、これは決定的ではなく、変化していく可能性がある。

・サリヴァンと鯨岡の乳児研究

サリヴァンは、乳児と他者を繋ぐ「感情の絆」があり、この絆に基づき養育者との間の「感情の伝染」や「感情の交わり」が生まれる。また、これを鯨岡は「情動通底性」と呼ぶ。鯨岡はマーラーと異なり「情動の共有」を介して「次第に一体感」や「共生的な関係」に移行すると考える。

乳幼児期における養育環境が、彼らのその後の発達にとってかなり重要な意味を備えている。

2. 愛着理論における子ども ― 養育者関係

  ・ボウルヴィの戦災孤児に関する体系的調査(社会福祉政策の推進に大きな貢献を果たす)

生後1年間における母性的養育の喪失や欠如が、子どもの人生に決定的な影響を与える。

・エインワースの4つの「愛着の基本類型」

母親の短期の不在や別離を乳幼児に体験させると、

A回避型  B安定型  C抵抗/アンビバレント型  D無秩序・無方向型

※A型とC型を示す子は、後に愛着形成不全を呈し、D型の多くが被虐待児である

他方、これらは必ずしも決定的できはないとする研究もある。

・遠藤利一の研究

「人生早期に親との間で形成されるアタッチメントが、必ずしも永続的で不変の影響力を行使し続けるわけではなく、環境の変化や子どもの対人関係の広がりなどに応じて、多かれ少なかれ変質する可能性」がある。

・数井みゆきの研究

「母親との関係が全ての関係の基礎になる」のではなく、子どもが他者との間で「築く関係は、母子間での愛着関係とは独立的に存在しているようで」ある。

以上の指摘は、根なし草の子どもたちの乳幼児期の愛着関係不全は、その後の様々な他者との関わり合いで安定的な愛着関係を新たに育むことができる、ということを示してくれている。


愛着障害

 ・反応性愛着障害の2つの型

抑制型・・・「過度に抑制され、過度に警戒的な様子」

脱抑制型・・「妙になれなれしく初対面に相手に近づいたり、誰彼かまわず愛着関係を結んでしまう」

・リヴィーによる愛着障害における6つの徴候

行動・・・攻撃性など   認知・・・学習障害など  感情・・・著しい気分の変化

社会性・・・仲間関係の欠如や不安定  身体・・・痛みへの耐性あるいは過敏さ

道徳性/精神性・・・信頼感の欠如など

こうした愛着障害の要因は、「心地よさや刺激、情動に対する子どもの基本的な感情的な欲求」や「子どもの身体的欲求」が一貫して見逃されたり、養育者が繰り返し交代することにある、とされている。

そして、愛着障害と呼ばれる現象がほとんどの場合、児童虐待によって引き起こされるとすれば、根なし草の子どもたちの多くが何らかの形で、愛着の形成不全や愛着の形成障害を蒙っていると見なされる。

・村瀬の指摘

「愛着障害が決定的な意味をもつようなニュアンスで語られているのを時折、耳にし、何か哀しくなる」

愛着障害がレッテルとなり、「〜がない」という仕方で否定的な含意もある以上、これらの言葉を用いる際には、かなりの慎重さと配慮とが必要になる。

 2節 相互主観性理論

1. 本書における相互主観性理論の位置付け

・フッサールは『デカルト的省察(以下、『省察』)』の第五省察において、相互主観性理論についての現象学的解明を行なっているが、それは不充分であった。だから、フッサール自身も未公刊の草稿において、この理論にかなりの修正を加えていたし、様々な現象学者も解明を行なっている。本書においても、『省察』以降の相互主観性理論を考察の手がかりにする。

『省察』にける相互主観性理論

フッサールは『省察』の第一〜第四省察において「超越論的主観性」についての論を展開している。

現象学的エポケー判断停止・・・すべての「存在に対する態度を普遍的に妥当性の埒外に置くこと」

超越論的主観性・・・・「すべての客観的な妥当性と〔様々な〕根拠とを支える妥当性の根拠」

つまり、エポケーを介して超越論的な領分へと還帰することで、超越論的主観性へと帰還する。これはすなわち、「客観的世界の存在さえをも含めた、すべての学問の最も深遠な基礎づけを超越論的主観性のうちに求めること」という現象学的探究の出発点なのである。

しかし、これはどこまでいっても「エゴ(我)自身の内で構成されているもの」であり、「超越は、エゴの内在的な存在特性」ということになり、「超越論的な独我論」という批判が向けられる。

そこで、フッサールは第五省察において「他者経験の問題」を扱うことになり、「始原的領域」を設定する。これは「“異他なるもの”を経験としてもつことができず、したがって、客観的世界という意味を経験的意味としてもつことができない」領域である。この層を基礎づけの土台にし、この上に他者や客観的なものがどのように構成されるかを、超越論的に解明しようとする。この解明に関与するのが「感情移入」。

そして、ここでの「他者」こそが、世界とその世界内のあらゆる客観に、相互主観的という意味での客観性を付与しているため、感情移入を超越論的に解明すれば「異他なる主観の超越論的な意味」や存在が、現象学的に解明されることになる。

本書にとっての相互主観性理論の意義

フッサールを含めて現象学者の多くが、「すでに構成されている相互主観的な世界」を出発点に解明を進めているが、これはつまり「成人の意識」について、ということになる。しかし、本書では「幼児期から児童期にかけての子どもの意識」を扱い、さらにその子たちは「発達に何らかの困難」が想定されている。そういう意味で、相互主観性理論に依拠して解明するのは可能なのだろうか。

相互主観性理論においては、自我による客観的世界の「普遍的な構成の本質的な構造」の解明が目指されていることに注目すれば、それは可能である。実際、現象学的精神病理学や重症心身障害児の意識の解明などでは、相互主観性理論の知見が理論的根拠とされている。だから、本書で扱う「根なし草」の子どもたちの場合でも可能だろう。

しかし、相互主観性理論を無条件に適用されることは許されない。この理論によって解明されている事態が個々の子どもにも生じているのか、という理論と実践の循環を試みることが本書で考察する課題だ。

2. 感情移入の超越論的根拠

フッサールによる感情移入

フッサールは、超越論的主観性による他者構成と、相互主観的な客観的世界の構成の解明に際して、日常的に経験される他者を手引きとしている。この他者は、私と同じような経験をしているという意味で「世界に対する主観」であり、かつ私の構成している「世界内の客観」でもあるという二重性を備えている。しかし、その二重性でさえ私の自我によって構成されているという意味で、他者は始原的世界の中では「私の類似態」なのである(でも「通常の意味での類似態ではない」と留保する)。この「類似態」を経験することを可能にしているのが、先述の「感情移入」である。

他者の身体物体は「私の身体物体と類似している」ので「対化」という性質を持つ。だから、この自他の身体物体において、「意味の受け渡しが遂行される(対化的連合)」ことになり、他の自我が間接的に現前する。

こうして統覚された「他我(アルターエゴ)」は、私の始原的領域においては、私の「ここ」に対して「そこ」という方位づけがなされる。これは「一方の体系ともう片方の体系の意味の類化、あるいは同等化」であり、これはすなわち「私と他者の世界は同一であること」となる。しかしこれでは他者に固有の想いは不充分な仕方でしか捉えられない。そこでフッサールの感情移入を超えた感情移入を解明する。

浸透的な感情移入

 感情移入が想定される3つの場面

① 私が他者の立場にいるような仕方(擬似的な自己)

② 他者だったらどうするかという仕方(私ならばそうしないが、あの人ならば・・・)

③ 他者の視点や感情が、自己へと移入する仕方(人が笑っているのを見て愉快になる)※③は②の基礎

以上から、感情移入には、「自我→他者」だけでなく「他者→自我」もある。前者は『省察』でなされたので、後者について自他の等根源性について発生的現象学から考察を行うのが榊原と谷と山口である。

榊原における自他の等根源性

 「私の身体」の意味発生は「他者」との対比によって初めて発生する。そしてフッサールはこれを、「新生児を両親が目覚めさせる」ことを想定しているらしい。つまり、「私」が生まれたまさにその時に「最初の他者(両親)」も創設された、となる。

谷における他者構成の三つの層

 発生的な他者構成の3つの層

表層 「唯一の世界が最終構成される」 (自我→他者)

中層 「異他との遭遇」を契機としての「私の主題化」の生起 (自我→他者)

深層 自他の癒合的な共存状態(原初の相互主観性) (自我↔︎他者)

山口における匿名的間身体性

 乳幼児の意識における「先自我性(偏身体性・汎身体性)(汎 はん 広くゆきわたる)」の解明

乳幼児の喃語の考察

乳児の喃語→「キネステーゼ(運動)」+「声(聴覚)」(一方が起これば必ず他方が起こる相互覚起)

母親の模倣→「声の予感」+「声(聴覚)」(起こるべきものが起こらない)

つまり、癒合的で匿名的な「間身体性の原地盤」から、「自我の自我性」と「他者の他者性」が同時に生成されることになる。そして、この原地盤は無くなることがなく意識の根底で常に働き続けている。だからこそ、我々は「浸透的な感情移入」が可能になる。

哲学的現象学と現象学に基づく教育研究

 以上、榊原と谷と山口の解明により「浸透的な感情移入の超越論的な根拠」は明らかになった。

 しかし、現象学研究では「経験する人間の具体的体験に基づき」解明するが重要である。そうなると、上記三名とフッサール自身による解明には不充分な点がある。それは、「経験的事実」と「具体的体験」の不在である。つまり、上記の解明は「現象学的解明によって明らかにされた事例を、発達心理学の知見によって裏づけようとしている」ことになる。そこに彼らの経験による根拠はない。

 だから、本書が目指すべきことは、「相互主観的な意識を、こうなっているはずである、という想定に留まらせず、具体的で経験的な子どもたちのそのつどの生に即した仕方で、これらの意識の基づけ関係や成立過程を明らかにすることが、目指されなければならない」ということになる。すなわち、「他者の他者経験の解明が、本書の大きな課題となる」。

 フッサール自身も「すべての超越論的経験は自然的経験を前提としている」と述べている通り、「現象学における知見を、具体的な事例へと単に応用するのではなく、現象学における知見と事例との間で、解釈を循環させる」ことが求められている。

超越論的生→すでに完了している閉じられた生(開放性なし)

自然的生→新たなもの、不意討ち的なもの、予期しえないもの、制御しえないものに対する開放性がある

「自然的生を遂行する自然的自我」=「超越論的自我」

 つまり、「理論(超越論的に解明された)と実践(自然的自我が営む)とを調停する」自然的自我は、さらに豊かで新たな生を営める。

  3.匿名的な他者との共同主観

フッサールの相互主観性理論の不充分さについての考察

『省察』では「他者の存在」や「他者の自我が私と異なる自我」ということが予め前提されている

これの解明を、「他者意識」の視点から試みているのがヘルトである。

我々の生が「他者たちと同じ生である」という素朴な確信はどこから来るのか。

知覚→直接現前+間接現前(未来予持+過去把持)

 ここでの「間接現前」こそが、まさに「他者が見ているであろう生(他者の直接現前)」であり、それは私の視点(直接現前)の「脱視点化」を意味する(私を超え出る 超越作用)。

 さらに、未来予持は私の行動によって直接現前になりうるので「或る他者にとっての現われ方の各々を、私にとっての現われ方へと転換することができる」。すなわち、他者と私は「同じ生を生きて」おり、「共同の世界という意識を伴って」私が客観的世界を生きるためには、「世界を私と共有している特定の他者」が存在していないといけない。しかも、「客観的世界」においては、私自身も「単なる一人の誰か(他者)」として機能している。

 この「客観的世界」を把握するためには、「私の世界とその中で与えられているものとが、非主題的(意識の志向性の外側)に共に機能している他者によって一貫して共に把握されている」という意識をもつ必要がある。この意識によって「間接現前の確証可能性」が保証される。こうした考察から、ヘルトは上記のような他者を「共同主観」と名づけた。

 以上の考察より『省察』で記述される主題的な他者経験が可能となる。

 さらに、ヘルトは「他者経験による主題化と非主題化とに関する基礎づけ連関」を逆転することも主張する。つまり、他者の間接現前こそが、共同主観を主題化することを発生的に可能にしているのである。

 ヘルトは「他者によって私の世界が共に把握されていることが、いかにして原本的に所与性へと至るのか」という問いを挙げているが、これも、これまでの考察から、先自我と世界の癒合的な状態と、その根拠とした相互主観的な意識の成立についての解明により、匿名的な他者との共同主観である意識の発生過程に関する超越論的根拠の一つとなるだろう。