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仕事とストレスを溜めない、朝のルーティン


僕は物覚えが悪い

 「仕事を溜めない」ということは、働き方改革の話が出ると、割と多くの人が言っていることかなと思います。そういうことは大体「真理」であって間違いがありません。だから、こうやって僕も伝えているわけです。でも、具体的にどうやったらいいのか、という点についてはそれぞれの先生で若干の差異があるのかもしれません。そういう差異を集めていって、コレクションしていくというのは大切なことです。

 さて、突然ですが、僕はかなり能力が低いなと感じています。特に「物覚えが悪い」。だから、書き留めておかないとすぐに忘れてしまいます。でも、優秀な点は、その自分の弱点を把握している点です。もうこれだけでかなり優秀ですね、はい。だから、仕事は溜めないようにしているのです。だって、溜まるということは、コレクションするということで、業務のコレクションなんて見たくもありませんよね。でも、学校の先生は業務を溜めがちだなと思います。

宿題の点検をいつするか

 まずは「宿題」です。僕から言わせれば、「給食の時点で宿題の点検が終わっていない日はかなり不安」ということです。僕は朝に会議やら行事が無い日については「1時間目が始まるまで」には宿題の点検が終わっています。子ども同士のトラブルなどがあったとして、その対応に追われている日であっても、「3時間目の始まりまで」には、点検を済ませています。

 宿題というのは「ほぼ毎日」あります。これは教員生活のルーティンワークであり、それが「ルーズになりがち」という状態が不安なのです。学校の先生の業務というのは、その多くが「アクシデント」によって支配されています。子ども同士は休み時間の度にトラブルを引っさげてやってきますし、急な仕事が舞い降りてくることだってあります。その中には、自分がうっかり忘れていた締め切り間近の仕事があったりもします。授業準備が必要な授業の準備を直前まで忘れていたなんてこともよくあります。

 そんな「アクシデント」がやってきたときに、「まだ宿題も点検できていないのにー」と焦ってしまうのが不安なのです。「焦り」とか「不安」というのは心身のパフォーマンスを下げてしまいます。そして、そんな状態でする仕事で「ミス」が生まれてしまうのです。そして、そのミスを回復するために多大な労力と時間が取られて・・・。

 「仕事を溜めない」というのは確かに難しいですが、「毎日のルーティン」なら見直すことが可能です。なぜなら、年間で200日の「練習日」が設定されているからです。毎日の試行錯誤ほど強いものはありません。そして、毎日していることはすぐに習慣化されます。習慣化されてしまえば、それ以前の自分の状態なんて思い出せなくなります。

朝のルーティーンワーク

 では、僕の朝のルーティンから見ていきましょう。まずは、子どもたちが登校する10分前には教室に上がります。そして、廊下と教室の窓を開けて「空気の入れ替え」を行います。これは、野球選手であるイチローの打席に入るときの「あれ」と同じです。それをしないと落ち着かないのですね。新鮮な空気の方が「心身のパフォーマンスが上がる」と信じてみるのも大切かもしれません。これは偽薬効果(プラシーボ)みたいですね。

 その後、子どもたちを教室で迎えます。「おはよう」と子どもたちに言って、それに対して子どもたちからの返事がなくても怒らないであげてください。こう言ってはナンですけど、あいさつを返す子どもの方が珍しいのです。子どもたちはまだまだ未熟なのですから。大人からの笑顔のあいさつを受け取った子どもたちが、大人になって成熟したときに「あいさつができる大人」になっていたらいいのです。そのような未来へ向けた「種まき」という認識を持つと教師は幾分、寛容になれます。

 さあ、ここからは少し忙しくなります。子どもたちは、登校時間も朝の準備のスピードもそれぞれ異なりますが、僕は基本的に子どもたちが「宿題を提出したその場で点検する」を心がけています。スピードが大事なのです。

「感じの悪い」漢字指導とは

 「漢字指導」に対しては、教師の間でもかなりの熱量の差があることは認めます。そして、僕のそれは子どもに対しては「寛容」です。基準は「読めるならば良い」です。「トメ・ハネ・ハライ」について厳格に指導して、しっかりと書けるまでは子どもに何度も書き直させる方もいらっしゃいますが、これをすると、まず「子どもが疲弊」します。ほぼ確実に「漢字を書くことが憂鬱」な子が生まれます。子どもの中には「まっすぐな線を書くこと」さえ、困難な子もいます。もちろん、「寛容な基準」によって「ダラける子」も出てきます。でも、まあ、それは本人の問題であって、こちらが子どもにかけられる言葉は「人に読ませる字は丁寧に書くと相手に喜ばれるよ」という「世間知」を伝えることくらいです。

 だって、「ダラける」や「丁寧」などは「原理」というより「程度」の話であって、「厳格」な指導は難しいと思うのです。結局、教師の主観の話なのです。そして、その主観の匙加減は、教師の心の状態にかなり左右されてしまうのではないかなとも思っています。それは、「ストレスが溜まっている状態」のことなのですが、これは、またあとで話しましょう。

学習指導は教室の中だけではない

 僕は「宿題だけで漢字指導を完結しない」ことも意識しています。僕の「寛容な態度」の漢字指導を聞いて、「子どもたちの漢字運用能力がどんどん下がるのではないか」と不安になられた方もいるかもしれませんが、それはよくある「学校側の過信」というやつですね。子どもたちの学力形成に実は学校はそこまで影響力は無いというのは、教育社会学では通説となっています。だって、もし教師の授業力によって子どもたちの学力が乱高下する事態になったら、それは大変ですよ。学年の先生の間にも、ベテランから中堅、若手といて、彼ら彼女らの授業にはそれぞれ個性が滲み出ていて、それが如実に子どもたちの学力に反映されだしたら、管理職は気が気ではないでしょう。

 いや、多少の影響はあるとは思うのです。例えば、前にも例を出した通り、子どもが「不登校状態」になってしまえば、その学力はかなり落ちることが多いです。しかし、これはどちらかと言うと「学習へのモチベーション」が低下しているだけです。あとは「学習機会の損失」です。僕は以前、不登校傾向の子を支援していたことがあるのですが、その子は6年生で、算数は苦手で4年生の部分から復習をしていましたが、余暇の時間にはカーネギー著『人を動かす』を読んでいました。僕は彼の学力が低いとはとても思えませんでした。ベクトルの向きが変わってしまっただけなのだろうなと。

 でも、もう少し考えてみると、算数は、そこまでして身につけないといけないのかなとも思ってしまいます。僕個人も算数がかなり苦手で、大学生になっても「割り算の筆算」の仕組みがよくわかりませんでしたが、誤魔化しながらなんとか過ごした結果、高校時代は学年の学力テストで四位(三百十九人中)を取りましたし、国立大学にも入学できましたし、教員採用試験にも合格できました(そこから小学校算数を猛勉強しましたが笑)。

 そんな特異な例ばかりを出して、自分の実践の甘さを是認するなという反論は最もなんですが、もう一度不登校の話に戻しますけど、不登校は現状、「マイノリティ(特異)」なんです。だから、どの学校も効果的な対策が打てない。だって「マイノリティ」ばかりを見ていたら、その他の子どもたちを見ることができなくなりますから。結局、「マジョリティ」向けにならざるを得ない。そんな状態の学校なのに、一部の「漢字がどうしても書けない子」を、自身の厳格な漢字指導で苦痛を与えてもいいものですかね。その結果、不登校状態になったら、責任は取れるのですかね。

教師の責任論

 僕は教師の責任論についてもかなり寛容でありたいとは思っているのです。さきほどのような言葉遣いをされてしまうと、相手は「ぐう」としか言えませんから。ずるい戦法なのです。でもね、不登校状態になった子どもたちを見ると、割と多くの子が「毎日の厳格な漢字指導」に苦痛を感じていた事例は多いのです。子どもたちの、その気持ち、よくわかります。自分では一生懸命に書いているつもりでも、毎日「赤ペン」で「完璧な字」が書かれていると、それは子どもにとっては「出口のない迷宮」みたいに感じても不思議ではありませんよね。そうして、子どもたちの学習は「苦役」へと変容してしまうのです。

さて、話を戻します。今回の講演の裏テーマは「脱線話こそ本質」だったのです。だから、存分に脱線話を盛り込むので、どうかついてきてくださいね。

宿題だけで完結しない漢字指導

 話のテーマは「宿題だけで漢字指導を完結しない」でした。宿題には割と「寛容」な姿勢で臨みます。僕からすれば、「宿題をやってきたら、それだけで合格」という気持ちです。でも、そこで漢字指導は終わりません。むしろ、それは「前提条件」みたいなものです。僕は国語の授業時間の冒頭に「漢字テスト」をしています。むしろ、僕の漢字指導の肝はここなのです。

 テストに対しては否定的な構えを取ることが多い僕ですが(拙著『それでも僕は、「評価」に異議を唱えたい』東洋館出版社 を参照のこと)、漢字テストは別です。なぜなら、漢字テストは「事前に出題内容」が丸わかりなのですから、「がんばり方」が明確なのです。「何をしたらいいか」がわかっていれば、人は「がんばれる」ものです。そして、僕は漢字テストを「複数回」することを心がけています。

 だって、「一発勝負」っておかしくないですか。この根底にあるのは、「子どもたちを格付けしてやろう」という「選抜」の考え方ですよ。でも、僕はテストを「選抜」では使いたくない(そういうテストに否定的な構えなのです)。むしろ、「気づき」とか「奮起」としてテストを使いたいと考えています。複数回、同じテストを受けることができる利点はなんと言っても、「次は同じ間違いをしないぞ」という子どもの意識の涵養ですね。つまり、子どもたちの意識が「点数」から「誤答」に自然と向くわけです。これは「一発勝負」のテストだとそうはいきません。一発勝負のテストでは「点数」がすべてです。過去への「後悔」をいくら抱けても、それは「やり直し」ができないので、あまり意味がない「後悔」なのです。次のテストの頃には、その「後悔」でさえも、忘れてしまっているでしょう。というか、「後悔」みたいなマイナスな気持ちを主たるエネルギーとして期待してしまう教育なんて悲しくないですか。

子どもを動かすためには

 このように「直接的な指導(言葉かけ等)」によって子どもたちを動かすのではなくて、「構造(システム)」によって子どもたちを動かせるような「仕掛け」を考えるのが好きですね。まあ、これだって僕の自己満足みたいなもので、効果検証をしているわけではないからわからないのですよ。でも、この「学びの場を作っているのは私だ」という意識は僕のパフォーマンスを少しも減退しないので、良いでしょう。むしろ、「このようにやらせましょうね」なんて「学年で足並みを揃え」ていたら、「学びの場を作っているのは私だ」なんて意識は持てませんよね。どこまでも「教育工場の工員」みたいです。

 ということで、またまた話を戻します。漢字の宿題の点検を朝に終わらせるために、その点検には「厳格さ」よりも「寛容さ」を持って臨むという話でした。つまり、子どもたちが提出した側からどんどん丸をつけて、名簿にチェックをしていくのです。始業のチャイムがなる頃には、名簿にチェックが付いていない子は、準備の遅い数名だけになっています。僕のクラスはあと、計算ドリルと音読と連絡帳の点検もあります。これらすべてを同時並行的に進めていくので、朝の僕はかなり高速で動き回っています。

連絡帳はいつ書くの

 ちなみに、連絡帳は朝の段階で黒板に書いておきますので、子どもたちは登校後、朝の準備が終われば、連絡帳を書いて提出するというところまでが「朝の準備」になっています。連絡帳を書く時間についても、教師の間で個人差がありますね。最近は、メールアプリを用いて直接家庭へ連絡帳を配信したりしている学校もあるみたいで、時代だなと感じています。連絡帳を朝に書かせるのには理由があります。それは、「保護者からの連絡」を「朝のうちに確認しておきたい」というものです。何か重大な連絡が、連絡帳に書き込まれているということはよくある話です。それを教師が「昼過ぎまで知らなかった」となるのを避けたいのです。それを避けるために「朝一番に連絡帳提出」→「教師が中身を確認」→「返却」→「連絡帳を書かせる」→「再提出」としている先生もいますが、これこそ「習慣化による自己分析の甘さ」の典型ですね。無駄が多すぎます。毎日しているルーティンに無駄があっても、習慣化してしまうと、それが「当たり前」になってしまって気がつけなくなってします。先程の例だと、「連絡帳」の移動が多すぎます。移動が多いということは「紛失」のリスクも増えます。「ルーティンの単純化」というのは、本書の中でもかなり重要なアドバイスになっております。

 こうして、1時間目が始まるまでには、漢字ドリル、音読、連絡帳までは点検がほぼ終わっているという状態が作られるわけです。

 ただ、さすがに、計算ドリルまでは厳しいですね。そこまで高速では見ることができない。だから、僕は「計算ドリルの宿題」を出す日を決めています。つまり、「朝にゆとりがある日」の前日に計算ドリルの宿題を出すようにしています。学校によっては、月曜に全校朝会、火曜に職員連絡会、木曜日に児童集会など、朝にも行事がびっしりという学校もありますので、そういう日は「計算ドリル」を出さないとします。では、いつ計算ドリルをさせるのかという質問が出てきそうですが、それはあとで話すことになるであろう「授業づくり」のときに話しましょう。

大切なのは「点検済み」という安心感

 このように、「宿題の点検が終わっている」という事実がもたらす安心感を軽んじてはいけません。そこから解放されているだけで、どんな「アクシデント」にも対応できそうな気がしてきます。実際、僕は3児の父なのですが、一番怖いのは「保育園からの電話」ですね。「お子さんにお熱があって・・・」とか「お子さんが嘔吐してしまって・・・」と連絡が来たら、すぐにお迎えにいかないといけません。業務強制終了ですね。こういう経験はたしかに辛かったのですが、そういう経験が、僕に「毎日のルーティンの見直し」を迫ったとも言えそうですね。