日本の公立学校の原点①

社会が学校に求めたことは何だったのだろうか。

そこには欧米における産業革命や市民革命以前と以後で大きな違いがあると考えられる。

産業革命や市民革命以前の教育の目的は(もちろん国によって異なるが)、例えば、ヨーロッパの国々では教会が主となり聖書を読めるようにすることが目的であったり、日本の寺子屋であれば商工業の発展に伴い武士や僧侶などが読み書き算を庶民に教えて生活に困らないようにするためであったりと様々である。

しかし、産業革命を経て、多くの国々には新たな教育の目的が生まれる。

それは、「産業社会に求められる人材養成を学校教育で実現しよう」というものである。

この目的により、学校の存在意義というのは大きな転換を見せることになる。

このような近代的教育を象徴する実践者の一人としてアメリカの教育学者であるウィリアムTハリス(1835−1909)が挙げられる。

彼の行った教育経営を見ていくと、その多くが現在の日本の公立学校に息づいていることを感じさせられることになる。

ウィリアムTハリスの教育経営

ウィリアムTハリスは19世紀の中ごろよりアメリカ合衆国のセントルイス市の教育長として学校教育の近代化と新しい運営方式の確率に貢献してきた人物である。

彼は当時、アメリカの主要都市のほとんどが抱えていた「人口増加」とそれに伴う「都市化」という問題に対応する様々な学校運営の方式を打ち出した。

そして、それらの先進的な運営方式は現在の日本の多くの公立小学校の中に根付いているのである。

ここでは、ハリスのセントルイスでの実践を追っていくことによって、現在まで続く公立小学校の特徴を明らかにしたいと思う。

ハリスは1835年にコネチカット州で生まれる。その後、イエイル大学を中途退学しセントルイス市へ移り、助手、教育次長、そして1868年に教育長となり1880年までの13年間、セントルイス市の教育長として様々な運営方式を打ち出す。

ちなみに、その後、哲学学校の教授や全米教育長長官としての活動も続くのだが、ここでは、セントルイス市教育長時代での彼の活動を取り上げたいと思う。

①数の圧力

ハリスが教育長であった時代のアメリカの都市の教育問題というのは、どこまでいっても「数の圧力」がつきまとっていたといえよう。

この時代のアメリカの都市は東南欧からの移民も含めて、爆発的に人口が増加していたのである。

つまり、この時代の教育は、教育を熱望する何千人もの生徒がいるのに、教師や教室の不足ゆえに彼らに教育を提供できないという問題に直面していたのだ。

例えば、シカゴ市では1874年に学校登録者数は47963人であったのに対して、座席数は33517しかなかった。

つまり、仮にこの時代のシカゴ市に義務出席法が制定されていれば(イリノイ州などには制定されていた)、生徒の三分の二は座席が無いという状態であったのである。

この教室と座席数の不足は、一朝一夕に解決できるような問題ではなく、したがって、そこには当然に、数少ない教室、座席、その他の資源をいかに効率的に活用して、効果的に教育を行うかということが教育経営者に差し迫った問題として課されていたのである。

そのような中でハリスはセントルイス市の教育長としてその手腕を振るったのである。

まず、ハリスが行ったのは「学校の標準化」である。ハリス自身が初めて入学した学校はいわゆる「田舎の学校」であった。「田舎の学校」とは以下の通りである。

“田舎の学校は、ハリスが最初に入学した伝統的な「赤屋根」の学校であり、普通そのような学校では6歳から16歳ぐらいの児童を収容し、一人の教師がそれぞれの児童に見合った教育を施していた。そのような学校には共通のテキストや標準的な教育方法、学年編成というものは見られず、教師の資格も一定ではなかった。“

つまり、当時の「田舎の学校」というのは、現在の日本の学校ように学年も無く、定められた学習指導要領というものもなく、子どもたちは同じ空間にいるが学習内容は別々で、一人の教師がそれぞれの子どもに合わせて教育を行っていたのである。

そして、ハリスに言わせると、19世紀になってもアメリカの学校は「田舎の学校」が数の上でははるかに多かった。例えば、ロードアイランド州では学校総数の263のうち158の学校が10名以下の生徒しか出席していなかった。

このような状況にあって、ハリスは教育長として、教育経営を効率的にするために「学年制」と適切な「組み分け」をともなった都市の学校の形成に尽力した。

同一進度の者を同一学年に集める「学年制」を徹底し、「組み分け」を度々行うことによって学習集団の能力差を少なくしようとしたのである。

そして、同時にハリスは「校舎の標準化」も行った。

この頃のセントルイス市には一人の教師と60人の子どものいる教室から、1100人の子どものいる24教室をもつ三階建ての校舎にいたる寄せ集めの建物を所有していた。

人口増加の問題は引き続いていたので、1859年、セントルイス市学校史上はじめてのことであるが、一度に9つの新しい学校が開校した。

そして、その学校のどれもが新しいシステムである「学年制」に対応していた。

従来のランカスターシステムの学校は、一般に大教室で校長が生徒の前の高いところに座っており、いくつかの小教室が大教室の側にあり、そこで助教が復唱を聞いていた。

これに対して、新しい学校の校舎は校長の役割を変え、助教の役割を上げて、同じ教室から成り、各教室には60の座席があった。

つまり、現在の日本の多くの学校校舎のようなかたちである。

限られた土地でより多くの子どもに対して教室の座席を用意するためには、これが最善の方法だというのは、現在の日本の学校校舎を見ても納得させられる。

現在の「すし詰め」のような教室は、ここセントルイスで生まれた。

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