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『困難な教育』 あとがき

あとがき
 『困難な教育』、どうだったでしょうか。
 僕は常々「よくある教育書」は書きたくないと思っています。「明日から使える〇〇」とか「これを読めば〇〇になれる」のようなハウツー本にはニーズがあることを知っています。そういう知識が必要な人たちがいることも否定しません。教育には即興性が求められる部分が多分にあり、即興性を支えるのは「引き出しの多さ」です。僕だって、さきほどのような「よくある教育書」を読み漁っていた時期がありました。でも、ある時期から、「これだけではダメだぞ」と思うようになったのです。別の言い方をすれば、「小手先だけ」ではやっていけないということです。

 教育という営みを主催する教師には「全人格的な素養」が求められています。それは「楽しい先生」や「おもしろい先生」だけではダメだということです。教育基本にある言葉を借りれば「国家や社会の形成者」である子どもたちを育成していかないといけないのです。その場が楽しければいいというような、「いま、ここ」だけの思考だけでは物足りない。「未来の社会を作り上げていく大人」をどうやって育てていけばいいのか、という大問題を常に頭の片隅に置きながら、あーでもない、こーでもないと悩み続けていくような「知的体力」が教師には求められるのです。「知的体力」を「知性」と呼んでもいいでしょう。今が万全ではない。よりよい何かを目指すことができる。中途半端な現状に対して、様々な可能性を試すことができる。そういう状態におかれている教師こそが「教育実践の正解」への長い歴程への第一歩を踏み出すことができると僕は信じています。

 現在の学校教育には、この「知性」が失われ始めているのではないかと危惧しています。ベテランは、これまで積み上げてきた「手持ちの資産」だけでのやり繰りを考え、若手は「どこかにある正解」へ繋がる「ジャンプ台」を必死に追い求めている。中堅は中堅で、職場内での影響力をいかに強めるかに終始している。
 悩むためには、自分にはない「ものさし」が必要です。二項対立で葛藤するためには、自分の中では決して生まれない、自分の教育哲学に反するような「ものさし」を、外部から取りにいかないといけません。そして、その複数のものさしを前にして、悩む。悩んだ結果、選んだ道を歩きながらも、やはり悩む。悩むためには先ほどの「知的体力」が求められます。悩むという行為にはかなりの負荷がかかります。

 スッキリしてはいけないのです。スッキリしている人は「自己完結の輪」の中にいるかもしれません。スッキリしている人の視線は上を向き、足元への関心が薄れます。自信満々の足取りはスキップ状態かもしれませんが、その着地点には、「弱者である子ども」がいるかもしれません。気が付かずに踏みつけてしまうこともあるかもしれません。

 悩んでいる人の視線は、下向きです。自分の歩いている道が急に崩れる不安を常に抱えているから足取りも慎重です。でも、そのおかげで、踏みつけそうな足元にいる「弱者である子ども」に気がつくことができるのです。
 この本で述べてきたことが、みなさんにはなかった「ものさし」となって、みなさんを、これまで以上に一層悩ませる結果になったなら、この本の役割は達成できたのかなと思っています。

 さて、ここからは個人的な話をさせてください。
 みなさんには「師匠」はいますか。僕にとっての師匠は「内田樹先生」です。内田先生の『街場の教育論』(ミシマ社 2008年)を読んで、ガツーンと一撃を喰らいました。それまでの僕の知的な枠組みの外側には、広大な地平が広がっているんだよと言われた気になりました。それからは、貪るように内田先生のご著書を読みました。それと並行して、いろいろな種類の本を読むようになりました。

 それまでの教師としての僕は「自己完結の輪」の中の住人だったと思います。荒れていると言われている学年をまとめあげて、校務分掌もしっかりとこなし、職員会議では堂々と意見を述べる。そんな自分に満足している部分も確かにありました。でも、その「外側」の存在に気づいてしまった。「お前には足りない部分がたくさんあるのだ」と言われたのです。そして、たしかに僕には足りない部分だらけだったのです。それは、知れば知るほど、切実に感じるのでした。まるで、喉の渇きを癒すために海水を飲む人のようです。

 内田先生に出会った少し後にユダヤ人歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』も読みました。これにも一撃を喰らわされました。僕は「歴史」をあまりに知らなさすぎた。本文中にも書きましたが、我々教師は子どもたちに「未来」を教えることはできません。我々が教えるのは、あくまで「過去」のことなのです。これは知識に限ったことではありません。「振る舞い方」だって「過去では、こうやって振る舞えばよかった」を教えているにすぎません。だから、教師はもっと「歴史」を知らなければならないのです。子どもたちに「モノゴトの成り立ち」を教えるためには「教科書の外側」をもっと知らないといけないのです。
 内田樹先生とハラリ先生。僕はこのお二人を「お師匠様」として学んでいこうと決めました。すると、なんというか、とても心強い気持ちになりました。教育には正解がないと言われています。だから、時にはとても不安な気持ちになります。「果たしてこれでいいのだろうか」と悩んでしまいます。そのエネルギーがたしかに大切なのは、ここまでも述べてきたのですが、一方で、人間はそんなに強くもありません。時には「誰かに頼りたい」気持ちにもなります。そんなときの「お師匠様」なのかなと、僕は考えています。

 数年前から「本を耳で聞く」という習慣ができました。僕は、『困難な成熟』や『街場の教育論』、『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』を何度も何度も耳で聞いています。読書という活動は一度だけで完結するものではありません。何度も何度も薄く重ね塗っていくようにして理解していくものだと考えています。だから、読むたびに「新発見」があるのです。これは不思議ですよね。文章は毎度同じなのに、読み手の「解釈」は毎度異なる。それは、僕が常に変化を続けているからなのです。むしろ、自身の変化に気がつくためにも、何度も何度も「同じ本を読む」のかもしれません。

 今回の執筆の過程で、本書収録の「内田先生との対談」という夢のような企画もできました。本人と話すというのは、かなり勇気がいることで、自分の中で勝手に膨らませてしまった「内田樹先生」というイメージとご本人にズレが生じたらどうしようという不安も少なからずありました。しかし、そんなことは杞憂に終わりました。内田樹先生は、僕のまとまりのない話も(対談のはじめは本当に緊張して、何を喋っているのか自分でもわかりませんでした笑 なお、活字ではその部分は省略されていました笑笑)、しっかりと受けとめてくださって、さらに現場の教員に必要な「勇気」の話をしてくださいました。

 「いろいろ大変なことはあるだろうけど、子どもたちを教育するのは、現場にいるあなたたちなのです。勇気を持ってがんばってください。」

 内田樹先生からのメッセージを受け取って、僕はこれから学び続けたいと思います。

 最後になりましたが、原稿持ち込みの段階から「おもしろい」と言ってくださり、苦難もありましたが、何度も励ましてくださった学事出版の二見さん。そして、僕のワガママな性格を加味して、文章をより読みやすい形にしてくださったクワタさん(漢字変換お願いします)のお二人には大変感謝しています。
 執筆は思考の整理であり個人的な活動であるとは、まえがきで書いたものの、それらは「誰かに読まれる」ことで始めて「価値」が生まれます。そういう意味で、僕の思考に価値づけをしてくださって嬉しいです。ありがとうございました。

 個人的な話ですが、今年度は仕事上の苦難が多く、なかなか大変な一年ですが、それさえ「そんな年もあったよね」と「未来の養分」へと消化できるようにしていけたらと思います。

 2023年5月 梅雨の気配がする大阪にて