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正義と暴力、の話

(今回の記事は3000文字あります。)

ずいぶん昔の話です。

私は某SNSで、激しいレスバトル(論争)に明け暮れていたことがありました。

論題は「宗教活動」について。

私は生まれながらにして「教団A」という宗教団体に入会していました。
私はその教義自体には賛同していたものの、信徒団体の素行の悪さには嫌な思いを抱いておりました。

それについて改革の必要があると考えていた私は、SNS掲示板上で個人的に問題提起をし、複数人と議論を交わしていたのでした。

議論といっても、私が聞き役となって、さまざまな人の視点からの「教団A」に対する不満や意見を書き込んでもらうというものでしたので、その時点では論争には発展せず、比較的穏和な意見交換といった感じでした。

その流れが変わったのは、教団Aの熱心な信者「B」さんが掲示板に参入してきてからでした。

私もBさんも同じ教団Aに所属していましたが、匿名掲示板の性質上、書き込んでいるのが誰だかも分かりませんし、Bさんと以前にやりとりをしたこともなく、そのときが初対面でした。
最初は「同志が居た」とお互いに思っていたことでしょう。

ところが、Bさんと私とでは教団Aに対する熱意が天と地ほどに違っており、教団Aを少しでも貶す言葉があろうものならBさんは烈火の如く怒り狂い、発言者に対して執拗な口撃を仕掛けるのでした。

私が嫌な思いを抱く「信徒の素行の悪さ」とは、まさにBさんのそういった行動そのものだったのです。
教団至上主義とでもいうのでしょうか。

「世界の全ての者は教団Aの指導に従うべきであり、教団Aを貶したり、教義に反発することは許されない!もしそのような輩がいるのなら、私(B)が正義の鉄槌を喰らわせてやる!」

おおげさに言うと、Bさんの主張はこうでした。

それに対する私の意見は、
「いくら素晴らしい神や仏であったとしても、その宗教活動を運営する団体や信徒が「正義」の名の下に自分たちの行動に自制心を持たなくなってしまえば、本来の教えとは真逆のことをやるようになる。
宗教は人を罵(ののし)るためのものではないし、経典の文字も、人を貶めるために使うべきものではない。また、そのような事をすればするほど、教団の評判を落とすことになる。
よって、Bさんは他者への口撃をやめるべきである。」

というものでした。

Bさんはそれを受け、口撃の矛先を今度は私に向けるようになりました。
Bさんの主張は「人々を正しい信仰へ向かわせるためには目先の仲良しごっこなど不要で、たとえ自分が嫌われ者になったとしても正義を叫び続けることが大切だ。嫌われ者になるのをおそれて妥協や折衷案に走ろうとする貴方こそ間違っている!」というものでした。

かくして、同じ教団の信者同士の論争が勃発したのです。

Bさんは自身の行いがいかに正当性を持つのかについて、さまざまな文献や偉人の言葉の引用をもってきて私につきつけます。

私も負けずに、Bさんの行いがいかに本来の宗旨とかけ離れているのかを、やはり経典や文献の引用などを使用して訴えます。

二人のレスバトルは何日にも渡って続きましたが、お互いに相手を言い負かすことに執着するばかりで、論争に決着がつくことはなかったのでした。

むしろ、私は自分のやっていることに対して虚無感を覚えるようになり、自ら論争を放棄して舞台を降りました。

Bさんの行いがどうであれ、彼に対してムキになって言い負かそうとしている時点で、私もBさんと同じことをしているのだと気づいたのです。

それから十数年が経ち、私は教団Aから距離を置くようになっていました。
教団の気質が、私にとってはどんどん居心地の悪いものへと変悪していくのを感じたからです。
教団内部ではBさんのような考えを持つ人が優遇されて、私のような者は干されて行ったのです。


さて。

これと同じことが600年前のチェコでも起きていました。

それこそ、私が現在研究している「フス戦争」です。

フス戦争では、宗派内部の対立が戦争に発展しました。

既存の宗教「カトリック」に対する改革派として、フス派と呼ばれる宗派が誕生します。
しかし改革の方法論がまとまらず、対話による改革を推進する「穏健派」と、改革のためには一切の妥協を許さず、場合によっては武器を取ることもいとわないという「急進派」に分かれて対立したのでした。

私がフス戦争の研究に魅力を感じているのは、まさにこのためです。
私が体験した宗教論争が、600年前にも起きていたなんて。(そして、たぶん私は、前世でその時代に生きていたことがあります。)

600年前も現在も、私は「正義と暴力が結びつくこと」をひどく嫌悪するものでした。

また、宗教そのものは素晴らしいと思いますが、それを利用するために群がる宗教家・活動家も嫌いです。

特に人心掌握やコントロールには宗教を利用するのが打って付けで、幸福や救いをダシにして人々を支配できてしまいます。
武器を持って敵を殺すことが正義と信じ込ませることもできますし、たとえ武器を持たずとも、正義のためなら相手の心を徹底的に傷つけたり、社会から抹殺するような事をしても許される、といった思想へ誘導するのも容易なことです。

600年前のフス戦争では、宗教家が民衆を扇動して、「神のための戦い」に駆り出しました。
彼らは自分たちの行いは神の祝福を得て、死後はきっと天国に行けると信じ、嬉々として戦争に身を投じるのでした。


ところで、フス派の開祖であるヤン・フスは、カトリック教会が発行する「贖宥状(しょくゆうじょう)」の販売を非難していました。
贖宥状とは、それを買うことにより死後の救いが約束されるというものでした。
ヤン・フスは、「そんなバカなことがあるか!」と憤慨していましたが、彼の死後、その思想を受け継ぐべき弟子や信徒たちがどうしたかというと、贖宥状よりももっと酷い「戦争」に手を染めてしまうのです。

その構造は贖宥状を戦争に起き替えただけのものであり、根本的にはヤン・フスの訴えをまるで理解していない行動と同じになってしまっています。

正義と暴力はとても結びつきやすく、攻撃性を持った正義感は制御が効かなくなります。
正義の名の下では、いくら人が傷ついたとしても「必要な犠牲」などと正当化されてしまうので、暴力性はどんどんエスカレートして行きます。

宗教に限らず、例えばTwitterなどのSNSでの論争を思い浮かべてみて下さい。
相手を言い負かすために必死になるあまり、越えてはいけない一線を越えてしまう人の、何と多いことか。

暴力は物理的なものだけではありません。
平和の時代に生きる私たちは、言葉や権力で相手に精神的な損害を与えるように進化してしまいました。

Twitterなどで人を誹謗するのは一種の権力の暴走です。
言論の自由という権利があり、それを御しきれなくなった人が暴言や誹謗中傷をおこないます。
その背景には「自分こそ正しい」「相手が圧倒的に悪者だ」「悪は徹底的に叩くのが社会のためだ」という思想が根付いていることでしょう。

であるからこそ、その攻撃性を肯定するような教団は私は嫌いなのです。

嫌い、です。
その「嫌い」が「許せない」に変わったら要注意です。

「許せない」は暴力性の始まりなのですから。






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