夢を叶えた
17時半。終業のベルが鳴る。デスクの上に広げたノートや資料をまとめ、端っこに積む。間髪入れずにPCをシャットダウンする。
上司や先輩はまた仕事中だが、おれは彼らに「お疲れ様です」と小さく声をかけオフィスを後にする。
タイムカードを押して会社を出ると、外はもう暗い。日が短くなったな。早くウチに帰ろう。
18時前後の私鉄は帰りの通勤・通学客で混雑している。老若男女がぎゅうぎゅうに詰まった車両。
にぎやかな家族やおいしい晩御飯が待ってる人も多いんだろうな。逆に、おれのように暗い部屋に帰る人も多いんだろうな。
いずれにしても、みなさん、本日もお疲れ様でした。
急行電車が駅で停まるたび灰色の影がホームに吐き出され、車内にだんだんとゆとりが生まれる。乗客の顔を見渡す。みな、喜怒哀楽のないニュートラルな表情だ。
外で見せるオンの顔でもなければ、内で見せるオフの表情でもない。もしかしたら、それこそが素顔なのかも知れない。
そんなことを考えていたら、自分の降りる駅についた。閑散とした田舎の駅。チェーンの牛丼屋やカフェすらない寂れた街。
改札を出て、駅前のコンビニに入る。電車の中で甘いものが食べたくなったからだ。たまごプリンとタピオカカフェオレを購入し、家路につく。
静かな住宅街には、意外と多くの情報が転がっている。醤油のきいた煮物のにおい、つっかえつっかえのピアノの音、新築一戸建ての玄関先に置かれた三輪車。
色んな人生の断片を通り過ぎながら、トボトボと歩く。安アパートまでの10分弱の道のりは、おれをセンチメンタルな気分にさせるには十分な距離だ。
今日はどんな一日だった?
楽しくも悲しくもない一日だったよ。
こんな毎日がずっと続くんだろうか?
そうだろうな、おれが何もしない限り。
それって幸せかな?不幸せかな?
どちらでもないだろうね。
おれの小さな頃からの夢は【普通】になることだった。人それぞれ【普通】の定義は違うかも知れない。
おれにとっての【普通】は、ただありのままに生きることだ。
ありのまま起きて、ありのまま外に出て、ありのまま他人と接して、ありのまま帰って、ありのまま家で過ごす。
ただそれだけのことだ。言い換えれば、大人になるまでそんな生活を送れなかった。
おれはいつも自分を偽り、自分を騙し、他人を騙し、自分を恥ずかしがり、他人に後ろ指をさされてきた。
そんな生活が嫌になって、自分が自分でいられる生活を手に入れた。お金はなくなった。痛みがもたらされた。
そして【普通】を手に入れた。それは夢が叶ったということだ。
マイナスから始まった人生だから、プラマイゼロになる夢しか描けなかった。その夢が叶った時におれはもういい大人だった。だからそれより先の、プラス側に向かう夢はもう描けなかった。
この生活を手に入れるまで、色んな人に出会い、色んな経験をした。
ピンボールのようにアチラに弾かれ、コチラにぶつかり、ココにたどり着いた。一度は最愛の人と家族になったが、長くは続かなかった。一人でいるしかない人間なのだろう。
青白い月がおれを見下ろしている。
なあ、おれのことはどう見える?
寂しい男に見えるかな。
もしそうなら、それでいいよもう。
特別じゃなくていい。
普通でいい、むしろそうありたい。
怪獣やエイリアンが街を襲う映画なら、開始3分で死んでしまうモブで構わない。
悲しくはない。虚しくもない。
夢を叶えた。今に満足している。
月を見ながら歩いた。手から提げたコンビニ袋が、少し大きな弧を描いた。
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