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『ホモ・ルーデンス / 遊ぶ人』 古本屋で買って大正解!

「人間の文化は遊びにおいて、遊びとして、成立し、発展した」

1938年にオランダの歴史家ヨハン・ホイジンガが発表した書、『ホモ・ルーデンス』。

ホモ・ルーデンス(Homo ludens)」とはラテン語で、「遊ぶ人」。
ホイジンガ曰く、

遊びは文化に先行しており、人類が育んだあらゆる文化はすべて遊びの中から生まれた。つまり、遊びこそが人間活動の本質である。


遊び、遊びと学び、遊びのデザイン、遊具デザイン、プレイフルライフ、プレイフル・ラーニング、プレイフル・シンキング、・・・・・・
遊びについて考え関わるようになって、気がつけば10数年。

一度はしっかり読もうと思いつつ先延ばしにしてしまっていた『ホモ・ルーデンス』、ついに買いました。世界で翻訳されている『ホモ・ルーデンス』はドイツ語版のものを翻訳したものがほとんどで、日本語版もドイツ語版から訳されていると聞き、ドイツ語版をオンラインの古本屋で購入。

今調べてみたら、2018年にオランダ語版全集から直接日本語に訳された新版が出ているみたいです。

というわけで、日本語版も出ていますし、たくさんの方が上手な要約を出されているので、私は、この本が届いたときの小さな嬉しいサプライズについて書こうと思います。

私は輸送トラックから出る排気ガスや過剰包装を避けるためにも、またお店の人との会話が楽しくて嬉しいので、普段はできる限りオンラインで買い物をしないようにしているのですが、ロックダウン中でいろいろなお店が閉まっているので、今回はオンラインで。

また、状態のよいものであれば、自分のための本は新品よりも古本を買うのが好きです。私の手元に届くときには既にその本にも物語があるように思えるからです。昔、学校の図書館で借りる本には借りた記録が書かれた紙が挟まれていて、誰がいつこの本を借りたのかがずらーっと記録されていて、それを見るのもなんだかわくわくしました。このシステム、今もあるのでしょうか?情報保護のためにも、作業の効率化のためにも、学校の図書館も現在は全てデジタルになっているのでしょうか?


それはさておき、楽しみにしていた『ホモ・ルーデンス』の本が届いてわくわくして開けてみると、「遊び」に関する切り抜きが本と一緒に同封されていました!1996年と2000年のもの。
真ん中の写真は、16世紀フランドル(オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域)の画家ピーテル・ブリューゲルにより1560年に描かれた油彩画『子供の遊戯』の一部になります。こちらは、約250の子どもたちが約90の遊びを行っている「百科事典的絵画」として紹介されている、じっくり見るととっても楽しい絵です。現在はウィーンの美術史美術館で展示されているようなので、また気兼ねなく旅行できるようになったら、ぜひぜひ見に行きたい!!

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同封された切り抜きのいつくかの箇所にボールペンで線が引かれています。裏面にも。

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嬉しくて、本を開く前に、この記事に目を通しました。

おもしろい記事をストックしておいて、本の注文が入ると、そのテーマに合った記事を同封して配送しているのでしょうか。
愛をもってこのお仕事をされているのが伝わってきますよね。またこの古本屋さんで本を買いたくなりますよね。

記事をひととおり読んだ後、早速この本屋さんにメールして、素敵なサプライズだったこと、また彼のお店で本を買いたいと思うことを伝えました。


記事の中で印象に残った文章をいくつか紹介させてください。

Seit Kant die ästhetische Wahrnehmung als "Zustand eines freien Spiels der Erkenntnisvermögen" bestimmte, "welches sich von selbst erhält", hat der Begriff des Spiels in der philosophischen Ästhetik einen festen Platz. 
カントが美意識を「自ずと続く認知能力の自由な遊びの状態」と定義して以来、遊びの概念は哲学的美学において確固たる地位を築いてきた。
Spiele - das Spiel der Wellen, die Spiele der Kinder, Liebesspiele, die Wettkampfspiele des professionellen Sports - sind immer auch ästhetische Ereignisse.
遊びはいつだって美的な出来事である。波の遊びも、子どもの遊びも、愛戯も、プロのスポーツ選手の試合も。
Wer spielt, will sich gegenwärtig sein in einer Weise, wie es außerhalb der Zeiten des Spielens nicht möglich ist.
人は遊ぶとき、今その瞬間に存在しようとする。遊んでいるときのみに可能な方法で。
Spiel muß ernst genommen werden, um Spiel zu sein - sonst artet es aus in haltlose Spielerei.
遊びが遊びであるためには、真剣に受け止められなければならない。そうでなければ、それは薄弱な遊び事/絵空事になってしまう。
Spiele helfen leben, gewiß. Spiele sind notwendig. Im Spiel bringt die Gemeinschaft ihre Deutung der Welt zum Ausdruck, sagt Huizinga: dort, wo der Spieler in der Freiwilligkeit, Offenheit und Spannung des Spiels seine feinsten und humansten Möglichkeiten entfaltet, entsteht die Kultur.
遊びは生きていく上での助けとなる、確実に。遊びは不可欠である。社会は遊びの中で世界の意味を表現する、とホイジンガは言う。遊ぶ人が遊びの自発性、開放性、緊張の中で自身の最も精巧で人道的な可能性を展開するところに、文化が生まれる、と。
Das Spiel ist ein Mittel zur Genese des Selbst, sagt Margaret Mead.
Das Spiel ist eine Ausdrucksform des unbewußtsein, sagt Freud.
Das Spiel ist Anpassung der Wirklichkeit an das Ich, sagt Piaget.
Aber: daß man sich müde und unlustig spielen kann, wissen sie alle.
遊びは自己を癒すための手段である、とマーガレット・ミードは言う。
遊びは無意識の表現の形である、とフロイトは言う。
遊びは現実を自己に適応させることである、とピアジェは言う。
しかし:疲れて不快に遊ぶということが起こり得ることを彼らは皆知っている。
Ihre Spiele "waren nicht bloß holde sinnlose Kinderei, sondern entsprachen einem tiefen Bedürfnis, die Augen zu schließen und sich vor ungelösten Probleme und angstvollen Untergangsahnungen in eine möglichst harmlose Scheinwelt zu flüchten", erzählt Hermann Hesse.
それらの遊びは「無垢で無意味な子供騙しではなく、目を閉じて、未解決の問題や恐ろしい運命の予感から可能な限り害のない世界へ逃れるという深い欲求にも準じていた」とヘルマン・ヘッセは語る。


遊びに関する考えや書は本当にたくさん。
まさに、真剣に遊ぶことこそ、生きることだからでしょうね。


長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださって、ありがとうございました!

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