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共通テスト数学で味わったミスに潜む「人生の無駄な損失」

先日、大学共通テストがあった。僕は受験生でないため、新聞紙に掲載された問題を解いているのみだ。答えはYOUTUBEに転がっている。いい時代だ。

数学2Bの問題を解いていた時だった。
実に恐ろしい体験をした。

問題文には「PH,QH,RH」とはっきり書いている。
しかし何をどう間違ったのか「PT,QT,RT」と受け取ってしまった。

H→Tと脳内で勝手に置き換えてしまい、以降「PT,QT,RT」の長さで考察し、体積問題を解こうとしていた。

堂々と事実「PH,QH,RH」書いているのに、脳は勝手に事実を変えて「PT,QT,RT」として問題を解き、つまづいた。

事実が目の前にあるのに、脳内で勝手に事実をゆがめたうえ、ゆがめたモノ=事実(間違っている)に置き換えてしまう脳みそ

試験でこれをやってしまうと、どん詰まりになってしまいかねない。

僕なりに原因を考察したところ、自分で描いた図にあった。
また次の言葉が浮かんだ。

最初、脳裏に焼き付いたインパクト(衝撃)の大きさ


出典:東進ハイスクールから

「次に点Tから平面αに垂直な直線を引き、平面αとの交点をHとする。この時PH,QH,RHの長さ~

僕は最初にある言葉「点T」が脳裏に焼き付いた
一方でHはあまり衝撃に残らなかった

そのためか、タイピングしてる時ですら「PT、QT」と書いてしまい、慌てて消した。

事実を書こうとしているのに、堂々と事実に反する情報を書くところだった。脳にとっては目の前に書かれた事実よりも「大きく注目すべき言葉」が重要で、注目すべき言葉を脳裏に焼き付けた以上、堂々と誤作動を起こしてしまう傾向でもあるのだろう。

堂々とした誤作動は数学だとただの計算式でもよく表れる。たとえば6と8と9、書き方がへたくそだと8と9を間違って認識し、堂々とミスを犯してしまう。

また移行式。右辺から左辺に数字を移すとき、必ず写した式の符号が変わるか、逆数になる。しかしそのままにしたり、逆数にしないままおいたりで、簡単に間違える。

パソコンに打ち込んでいるタイピングだってそうだ。交点と書くべきところをタイピングで最初にでる言葉が好転であり、事実を堂々と間違えるところは機械も人間も変わらないのかもしれない。

脳は一度「自分で創った解釈」に入ると、なかなか抜け出せない。間違っているときも「自分の計算、考察に穴があるのだ」捉え「問題文の設定をゆがめている(=事実に反して読んでいる)」解釈があまりおきない。

答えを聞いて「え、どうして?」違和感が生じ、原因を調べて初めて「ああ、俺、HをTとみなしていたのか(問題文を読み違えていた)」気づいてしまう。

上下:東進ハイスクール出典

もう一つ、二次関数バスケットボールの分野で読み間違いをするところだった。こちらは出題者側が出した罠かもしれない。
AD=√3/15と書いており、Dの座標は(3.8 ,√3/15)と置いて計算するところだった。しかしこちらはすぐ違和感に気づき、正しい座標(3.8 ,3+√3/15)と出せた。

なぜこちらは正しくできたのか。
「複雑な計算になりそうだ。少し楽にできないか?」
いったん計算を止めて楽な道を探した結果、問題文の読み間違えに気づいた。

楽な道というか、ゴリゴリに計算しなくても簡略化できないかを考える癖、間違っていないと確信した。どうしても無理な時だけ、仕方なくゴリゴリ計算すべきというか。

数学の試験を解いていて、僕は次の怖さを上げる。


「脳みそが一方的に作り上げる物語」が招く恐ろしさ

堂々とした事実があっても、脳みそには関係ない。脳は事実を元に取捨選択して物語を作り、僕たちは物語によって判断する。

悪用が情報の切り取りであり印象操作だ。

例えば僕が「女を殴るのは良くない」述べた。
先ほどの数学における「事実」だ。

僕を嫌うアンチがこう書き替えた。
「女を殴るのは良い」(事実をゆがめる)

実際に僕が述べた言葉を聞くと
「女を殴るのは良くない」はっきり述べている。

しかし僕を嫌うアンチにとって、事実はどーでもよい。
事実の検証も重要でない。

アンチが書いた言葉
「女を殴るのは良い」言葉が重要だ。

というのも第三者のアンチが
「女を殴るのは良い」思い込みを事実と捉えた結果、

「やはり私の判断は間違っていなかった。
私は間違っていない。私の見立て通り、
こいつは女性差別野郎だ

自分がいかに正しく、ゆがんでいないか。
間違っていないか、自分に自信を与えたいからだ。

しかしここで別の第三者が指摘する。

「せんけんは殴ってよいなんて一言も言ってない。
殴るのは良くない、はっきり言っている。きちんと見ろよ」

事実を重要と置いている人にとって、自分の思い込み間違いは赤っ恥だ。

恥と認識して、改めて自分を見直す人もいれば……

「こいつは何を言っているのか」

事実があっても脳が拒否
「その事実は初めからない、この第三者は私をバカにする差別野郎だ(今更間違いだなんて言うなよ。私が間違っているなんて嫌だよ。恥かかされたじゃないか)」

かえって最初に創り上げた物語へ固執する。

固執した結果、どんどん自分の作った物語へ意固地になり、あるところで致命的なやらかしを行い、自業自得の痛みへとつながる。

自業自得の痛みを誰も引き受けないし、引き受けられない。「あいつのせいだ」といっても「お前のせいやん」と突っ込まれる。

自分自身でまだツッコミを入れられる人はましだ。
固執しすぎると、ツッコミなど入れられない。

永遠に「自分が作った物語地獄」にはまってしまい、抜け出せなくなる。抜け出すには自分の間違いを認める覚悟が必要で、心理的な痛みを伴う。

地獄こそが「無駄な損失」であり、地獄から抜け出すには「脳みそが勝手に織りなす物語」をしっかりと認識し、間違ったところを認めて事実第一で生きる(赤っ恥と向き合う)覚悟が必要だ。

もちろん物語を創る癖があるからこそ、人間は「まだ達成していないが、いずれ達成する想い」について、想いを形にすべく、死なずに生きようと頑張る。

ただ物語は基本「自分に都合の良い」展開を創るため、時に都合の悪い現実が押し寄せると「最初からなかった・見なかった」ことにして、さらに自分の作った物語へ固執する恐れがある。

これこそ「自ら不自由に至る道」と確信している。そして脳みそは不安から「自ら不自由に至る道」を欲している。

自由は脳が織りなす物語など邪魔でしかない。認識不足を起こすからだ。自由だからこそ「隠れた法則」を見抜きやすい。

「そうか、私は今××について不安を抱いている。これこそ自分で自分を不自由に至らしめようとしているのか」

とりあえず不自由にさせたがる根本こと、不安を手放してほしい。手放し方は簡単で「××に関する不安を手放すわ」言葉で宣言すれば十分だ。一度でなく、二度、三度というたびに手放せられる。

事実は事実として捉え、脳の認識間違いを減らすように生きたら、
自分だけしか気づかないチャンスを見つけると思っている。

という内容を、数学のミスを通して思った。

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