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日本初の産婦人科医「オランダおいね」

5月31日は、日本初の産婦人科医、楠本 イネが生まれた日。「オランダおいね」と呼ばれ活躍する。(1827年5月31日- 1903年8月26日)

皆様、いつもありがとうございます✨
グリーンビューティ®研究家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。

現在の長崎市銅座出身。母のお滝は商家の娘であったが、実家が没落し、出島にてドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトお抱えの遊女となり、彼との間に私生児としてイネを出産した。父シーボルトは1828年国禁となる日本地図、私塾門下生による数多くの日本に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し、イネが2歳の時に国外追放となった。

当時の日本では、お産とは、汚らしいものと考えられており、妊婦は、不衛生極まりない小屋に隔離され、悲惨な状況で出産させられていた。「女性の産科医がいれば、お産を嫌がる妊婦も減り、救える命がある」と考え、西洋医学を学んでいく。

イネは、まずシーボルト門下で現在の西予市宇和町の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙からは産科を学び、大村益次郎からオランダ語を学んだ。1859年からヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。1858年の日蘭修好通商条約によって父シーボルトの追放処分が取り消され、長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。

イネは、大村益次郎に憧れ、恋い焦がれたといわれている。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。

イネは生涯独身だったが、娘の孝子を未婚で出産。その高子も美形で名高く、「銀河鉄道999」のメーテル、「宇宙戦艦ヤマト」のスターシャのモデルになったといわれている。

東京の麻布で死去した。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。

その波乱に満ちた生涯は、司馬遼太郎『花神』、吉村昭『楠本いね』、吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』、宇神幸男『幕末の女医楠本イネ シーボルトの娘と家族の肖像』に描かれている。


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