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『二人のアンネ』アンネ・フランクとオードリー・ヘップバーン。


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グリーンビューティ®専門家の青木恵と申します。

ここでは、貴族、王族、名を残した方々の生涯、成し得たことをアップしています。
聖書にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される」(『ルカによる福音書』12章48節)をベースにしています。

先人がどのような環境で生まれ、何を学び、どんなことを残したか、そんなことを書いていけたらいいなと思っています。火曜日・木曜日にまとめて投稿しています。該当する偉人がいない場合はお休みです。

長文につき、時間があるとき、興味がある方をご覧くださいね。

楽しんでいただけたら、嬉しいです。


6月12日は、アンネ・フランクこと、アンネリース・マリー・フランク(1929年6月12日 - 1945年2月から3月頃)が生まれた日。世界中で読まれている『アンネの日記』の著者。ユダヤ系ドイツ人の少女。

アンネ・フランク(アンネリース・マリー・フランク Annelies Marie Frank , 1929年6月12日 - 1945年2月から3月頃)

オードリーヘップバーンは、女優時代、アンネの役の依頼が来ても絶対に受けないと言っていたそう。

実は、オードリーもアンネも同じ1929年生まれ。オードリーは5月4日ベルギーのブリュッセルで生まれ、アンネは6月12日ドイツのフランクフルトアムマインで生まれた。

1939年、2人が10歳の時に第2次世界大戦が勃発。男爵の称号を持つオードリーの母は彼女を連れて中立国であるオランダ、アルンヘムに連れ帰った。

オードリーは1947年にオランダ語でのゲラ刷りの段階で『アンネの日記』を読んでおり、その時のことを「涙が洪水のように流れた。わたしは半狂乱状態だった」とふり返っている。

「〔アンネ・フランクとわたしは〕同じ年に生まれ、同じ国に住み、同じ戦争を体験した。ただ、彼女は家のなかに閉じこもり、わたしは外にいた点だけが異なっていた。二つの部屋から一歩も外へでられず、日記を書くことしか自己を表現する手段を持たなかった思春期の少女。彼女が季節のうつろいを知る方法は、屋根裏の窓から一本の木をのぞき見ることだけだった。」

ひとりは死に、ひとりは生き残った、それだけの違いであり、あまりにも、生々しかった。

1957年、オードリーが28歳の時、映画『アンネの日記』の主役依頼がきたもののアンネ役は演じられないと辞退している。

アンネの父親のオットー・フランクが直接オードリーに会いにきても、それでもオードリーは引き受けることができなかったそう。

「ある意味、彼女は私の魂の姉妹でした。」と。

それから33年経った1990年、オードリーが61歳の時、『アンネ・フランクの日記』のチャリティコンサートでアンネの日記を朗読したのは、多くの子どもたちに慰めを与え、ユニセフの活動の役に立つからであった。

ユニセフ親善大使就任したオードリーヘップバーン

「アンネ・フランクの思い出が現在も将来も永遠にわたしたちとともにあるのは、彼女が死んだからではなく、希望と、愛と、とりわけすべての許しの不滅のメッセージをわたしたちに残すのに充分な時間を生きたからなのです」

オードリー・ヘップバーン

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